時代のファッションリーダー

19世紀最大のファッションクリエーター ウォルト

左奥のライラックを髪に飾り白いクリノリンドレス姿がウージェニーです。 この1855年にフランツ・クサーヴァー・ヴィンター・ハルターが描いた絵の中のドレスは全てウォルトの作品といわれています。 19世紀最大のファッションクリエーターはウォルトに違いありません。 若い頃のウォルト CHARLES FREDERICK WORTH (1826-1895) 1826年、イギリス・リンカシャーのバーン生まれ。 英語読みでは、チャールズ・フレデリック・ワース、フランス名はシャルル・フレデリック・ウォルト。 12歳の頃からロンドンの生地店で働き1845年20歳のときに渡仏、リシュリュー通りの有名な衣料雑貨店「ガシュラン」に就職します。 ここで10数年働き、クチュリエとしての第一歩を踏み出します。 その間自分が筆頭となり婦人服仕立部門をつくりクチュリエとしての修行を積み、1858年に独立してスウェーデン人投資家ボベルグの資金援助によってパリのリュ・ド・ラ・ペ通りに自身のメゾンを開きました。 独立後メッテルニヒ公妃のドレスを承ったことからナポレオン3世の皇后ウジェニーのお嫁入りの衣装をまかされ、それをきっかけに皇室の衣装を手がけていくことになり、そんななかでクリノリンを発明します。 ウジェニー皇后・ヴィクトリア女王のマタニティラインをかくすために考案されたというクリノリンは巨大化していきます。 時代のファッションアイコンに使われたことでクリノリンはヨーロッパの宮廷ファッションに大流行を巻き起こしました。 1860年代に入るとhttp://etalage.seesaa.net/article/389536349.htmlはさまざまなバリエーションがつくられるようになります。 やがてルイ16世の王妃マリー・アントワネットのマルシャンド・ド・モード(王室モード担当)だったローズ・ベルタンのようにファッション界でサクセスを極めます。 ウォルトの作品は、刺繍とレースをふんだんに使った高級服が基本で、ジェット、コード刺繍、マクラメ、フリンジ等やや重たげな世紀末の衣装を象徴したものが多く、彼はエレガントで華麗なクリノリン・スタイルを広め1866年にはプリンセス・カットのドレス、これは今でもウエディングドレスに形を残しています。 次いで下からペチコートをのぞかせるチュニック・モードを考案します。 チュニックというと現代日本ではカジュアルなワンピースのように使われていますが、本来上着のことでスカート・パンツ・レギンスなどボトムスと共に着るもののことです。 1868年にローザ・ベルダンが理事を務めていたモード商人組合の略称「サンディック」を発展させた「ラ・シャンブル・サンディカル・ド・ラ・クチュール・パリジェンヌ(フランス・クチュール組合)」略称「サンディカ」を創設します。 これが現在にまで残る、「パリ・クチュール組合」の前身です。 つまりオートクチュールの創世です。 1870年の帝政崩壊後、これまでの皇室中心のファッションスタイルは崩れました。 ウォルトは帝政の崩壊によって一度はファッション界を退いたものの、それまでの王族や貴族を中心としたものから新興のブルジョワジー(裕福層)、アメリカの富豪などを中心としたあらたな裕福層を顧客につけ、あらたなファッションスタイルへ変化し再度栄華を極めます。 この帝政の崩壊が結果的に新しいファッションを切り開くことになりました。 それはこれまでファッション業界である種のトレンドをつくってきた皇室(王室)がなくなったことで絶対的なスタイルがなくなり、ファッションデザイナーは「トレンドを作る人(皇室・王室)の服を作っている人」から「トレンドそのものを作る人」に変化しました。 こうしてウォルトなど優れたクチュリエの服を着ることがステータスとなり、トレンドとなり、ファッションデザイナーという新しい職業が生まれ、着る側が作っていたファッションが製作する側がファッションを提供するようになったのです。 オートクチュール以前のファッション業界の仕組みはカスタマーギルド制が背景としてあり、工程ごとに職業が独立していました。...

19世紀最大のファッションクリエーター ウォルト

左奥のライラックを髪に飾り白いクリノリンドレス姿がウージェニーです。 この1855年にフランツ・クサーヴァー・ヴィンター・ハルターが描いた絵の中のドレスは全てウォルトの作品といわれています。 19世紀最大のファッションクリエーターはウォルトに違いありません。 若い頃のウォルト CHARLES FREDERICK WORTH (1826-1895) 1826年、イギリス・リンカシャーのバーン生まれ。 英語読みでは、チャールズ・フレデリック・ワース、フランス名はシャルル・フレデリック・ウォルト。 12歳の頃からロンドンの生地店で働き1845年20歳のときに渡仏、リシュリュー通りの有名な衣料雑貨店「ガシュラン」に就職します。 ここで10数年働き、クチュリエとしての第一歩を踏み出します。 その間自分が筆頭となり婦人服仕立部門をつくりクチュリエとしての修行を積み、1858年に独立してスウェーデン人投資家ボベルグの資金援助によってパリのリュ・ド・ラ・ペ通りに自身のメゾンを開きました。 独立後メッテルニヒ公妃のドレスを承ったことからナポレオン3世の皇后ウジェニーのお嫁入りの衣装をまかされ、それをきっかけに皇室の衣装を手がけていくことになり、そんななかでクリノリンを発明します。 ウジェニー皇后・ヴィクトリア女王のマタニティラインをかくすために考案されたというクリノリンは巨大化していきます。 時代のファッションアイコンに使われたことでクリノリンはヨーロッパの宮廷ファッションに大流行を巻き起こしました。 1860年代に入るとhttp://etalage.seesaa.net/article/389536349.htmlはさまざまなバリエーションがつくられるようになります。 やがてルイ16世の王妃マリー・アントワネットのマルシャンド・ド・モード(王室モード担当)だったローズ・ベルタンのようにファッション界でサクセスを極めます。 ウォルトの作品は、刺繍とレースをふんだんに使った高級服が基本で、ジェット、コード刺繍、マクラメ、フリンジ等やや重たげな世紀末の衣装を象徴したものが多く、彼はエレガントで華麗なクリノリン・スタイルを広め1866年にはプリンセス・カットのドレス、これは今でもウエディングドレスに形を残しています。 次いで下からペチコートをのぞかせるチュニック・モードを考案します。 チュニックというと現代日本ではカジュアルなワンピースのように使われていますが、本来上着のことでスカート・パンツ・レギンスなどボトムスと共に着るもののことです。 1868年にローザ・ベルダンが理事を務めていたモード商人組合の略称「サンディック」を発展させた「ラ・シャンブル・サンディカル・ド・ラ・クチュール・パリジェンヌ(フランス・クチュール組合)」略称「サンディカ」を創設します。 これが現在にまで残る、「パリ・クチュール組合」の前身です。 つまりオートクチュールの創世です。 1870年の帝政崩壊後、これまでの皇室中心のファッションスタイルは崩れました。 ウォルトは帝政の崩壊によって一度はファッション界を退いたものの、それまでの王族や貴族を中心としたものから新興のブルジョワジー(裕福層)、アメリカの富豪などを中心としたあらたな裕福層を顧客につけ、あらたなファッションスタイルへ変化し再度栄華を極めます。 この帝政の崩壊が結果的に新しいファッションを切り開くことになりました。 それはこれまでファッション業界である種のトレンドをつくってきた皇室(王室)がなくなったことで絶対的なスタイルがなくなり、ファッションデザイナーは「トレンドを作る人(皇室・王室)の服を作っている人」から「トレンドそのものを作る人」に変化しました。 こうしてウォルトなど優れたクチュリエの服を着ることがステータスとなり、トレンドとなり、ファッションデザイナーという新しい職業が生まれ、着る側が作っていたファッションが製作する側がファッションを提供するようになったのです。 オートクチュール以前のファッション業界の仕組みはカスタマーギルド制が背景としてあり、工程ごとに職業が独立していました。...

19世紀最高のファッションアイテム クリノリン

「クリノリン」とは馬の尻尾の毛を指す「クラン(crin)」と、麻布を指す「ラン(lin)」を合成してできた言葉です。 もとは1830年頃に作られたスカートを膨らませるためにペチコート(スカートの中に入れる釣り鐘型フレーム)の繊維素材として使われた馬の毛を織り込んで硬くした木綿もしくは麻のことだったのですが、1850年代後半にスカートを膨らませるために有名なファッションクリエーターのウォルトによって鯨ひげや針金(後に材質は変化)を輪状にして重ねた骨組みの下着として発明され、そのままスカートのスタイル名として使われるようになりました。 それまでスカートを膨らませるために何枚も重ね履きする必要のあったペチコートに変わってドーム型のシルエットがそれまでより簡単に得られるようになりました。 1860年代に入るとクリノリンはその形を変化させ、さまざまなバリエーションが生まれました。 ヴィクトリア朝時代のイギリス女性の間で爆発的に広まりこのクリノリンによってスカートの裾は大きく広がれば広がるほど良いという風潮になります。 クリノリンが巨大化した理由の一つが1856年、皇太子(ナポレオン4世)を身ごもっていたフランスのウジェニー皇后が姿態の不恰好を隠すためにクリノリンを極端に拡大して使い、それが新しいモードとしてサロンに受け入れられ1850年代末にはクリノリンの大きさは最大値に達しました。 この巨大化は1860年代まで続きます。 しかし巨大なクリノリンは動くたびにクリノリンが引っかかって転倒したり、暖炉などの火がスカートに引火して火傷をしたりという事故が多発しました。 一説に年間3,000人の人間がクリノリンによる事故で死亡し、20,000人の人間が事故にあったといわれるほどでした。

19世紀最高のファッションアイテム クリノリン

「クリノリン」とは馬の尻尾の毛を指す「クラン(crin)」と、麻布を指す「ラン(lin)」を合成してできた言葉です。 もとは1830年頃に作られたスカートを膨らませるためにペチコート(スカートの中に入れる釣り鐘型フレーム)の繊維素材として使われた馬の毛を織り込んで硬くした木綿もしくは麻のことだったのですが、1850年代後半にスカートを膨らませるために有名なファッションクリエーターのウォルトによって鯨ひげや針金(後に材質は変化)を輪状にして重ねた骨組みの下着として発明され、そのままスカートのスタイル名として使われるようになりました。 それまでスカートを膨らませるために何枚も重ね履きする必要のあったペチコートに変わってドーム型のシルエットがそれまでより簡単に得られるようになりました。 1860年代に入るとクリノリンはその形を変化させ、さまざまなバリエーションが生まれました。 ヴィクトリア朝時代のイギリス女性の間で爆発的に広まりこのクリノリンによってスカートの裾は大きく広がれば広がるほど良いという風潮になります。 クリノリンが巨大化した理由の一つが1856年、皇太子(ナポレオン4世)を身ごもっていたフランスのウジェニー皇后が姿態の不恰好を隠すためにクリノリンを極端に拡大して使い、それが新しいモードとしてサロンに受け入れられ1850年代末にはクリノリンの大きさは最大値に達しました。 この巨大化は1860年代まで続きます。 しかし巨大なクリノリンは動くたびにクリノリンが引っかかって転倒したり、暖炉などの火がスカートに引火して火傷をしたりという事故が多発しました。 一説に年間3,000人の人間がクリノリンによる事故で死亡し、20,000人の人間が事故にあったといわれるほどでした。

ナポレオン3世妃ウージェニー

2008年 ルーブルは18日、ニューヨークのオークションハウス「クリスティーズ」で開かれたオークションでフランス皇帝ナポレオン3世の妻、ウージェニー皇后のために作られた141カラットのダイヤモンドをあしらったボウブローチを672万ユーロ(約11億円)で落札しました。 この歴史的なジュエリーは1855年、パリの宝石職人Francois Kramer氏によって当初ベルト用のバックルとして作られたもので、その後ウージェニー皇后がストマッカー(胸当て)に作り直させたものです。 フランス王室の戴冠用ジュエリーの大半は1887年にオークションで売却されましたが、このボウブローチは米国社交界の華とうたわれたアスター氏(Caroline Astor)(※1)が8万5000ユーロ(約1400万円)で落札し、以後100年以上にわたりアスター家が所有していたものです。 ウージェニー皇后は、時代のファッション.リーダーとして「クリノリンの女王」と呼ばれました。 そのクリノリンを発明したオートクチュールの父といわれるシャルル・フレデリック・ウォースは、パウリーネ・メッテルニヒ公妃(オーストリア大使夫人)のドレスを手がけた事から彼女と友人だったウージェニー皇后の目にとまり、その後ウージェニーの宮廷クチュリエとしてパリにメゾンを開設し、1860年頃から上流階級の支持を得て活躍してゆきます。 今回はナポレオン3世妃,ウージェニーの生涯を追ってみます。 スペインのテバ伯爵家の出身の低位の家に膿まれ、8つから11歳迄厳格なカトリック教育をすることで知られるサクレクール寺院女子修道院で教育を受け、11歳の頃にブリストルにあるイギリス系の学校に姉妹は入れられましたが、家庭教師と共に?姉妹は脱走してしまいます。 父であるドン・シプリアーノはボナパルト主義者で家族内ではフランス語を日常語としていました。 最愛の父が亡くなると姉のパカは家督を相続し、1849年にウージェニーの初恋の相手の第15代アルバ公ヤコポ・フィッツ=ジェイムズ・ステュアートと結婚してしまい、ショックの為か男装などの奇行が5年ほど続きましたが、愛する姉夫妻を認めることでなんとか立ち直ります。 やがて彼女の美しさと勇敢さの評判はフランスだけではなく、ヨーロッパ各国へ伝わっていきました。 彼女は各国の王侯貴族から求婚されますがすべてを断り続け、やがて鉄の処女と言われるようになりました。 1848年にルイ=ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン3世)(※2)が第二共和政の大統領になると、ウジェニーは母とともにエリゼ宮での「皇子大統領」(Prince-Pr?sident)主催の舞踏会に姿を現しました。 これが未来の皇帝と出会った最初の機会です。 1853年1月30日、ウジェニーは前年にフランス皇帝に即位していたナポレオン3世と、ノートルダム大聖堂で結婚式を挙げます。 フランスにとって外国から妃を迎えるのはルイ16世以来のことでした。 フランスの代表的香水のひとつにゲラン(Guerlain)がありますが、1853年にはウジェニーの為にオー・デ・コロン・インベルアル(Eau de Cologne Imp?riale/)を作り、そのボトルにはボナパルト家の紋章ミツバチがほどこされています。 (※3) これ以来、ゲランは宮廷御用達となりました。 1855年、イギリス王室からの招待で皇帝と共にイギリスを公式訪問しました。 結婚を反対されたヴィクトリア女王と会うのが気がかりでしたが、この公式訪問は大成功に終わりました。 クリミヤ戦争における同盟関係を結ぶことができ、ウジェニーはヴィクトリア女王に非常に気に入られ生涯の友人となりました。 ウジェニーは公式訪問の際に王女のヴィッキー(女王の長女ヴィクトリア、のちのドイツ皇后)にそっくりな人形をプレゼントし、その後は人形に着させるドレスをフランスから贈り続け、最新流行のドレスをヴィッキーが着られるように配慮しました。 ヴィクトリア女王からは画家のフランツ・ヴィンターハルターを紹介され、ウジェニーの貴族的気品、ドレスの豪華さや伝説的な宝石は多くの肖像画に残されています。   フランツ・ヴィンターハルターの描くウージェニー...

ナポレオン3世妃ウージェニー

2008年 ルーブルは18日、ニューヨークのオークションハウス「クリスティーズ」で開かれたオークションでフランス皇帝ナポレオン3世の妻、ウージェニー皇后のために作られた141カラットのダイヤモンドをあしらったボウブローチを672万ユーロ(約11億円)で落札しました。 この歴史的なジュエリーは1855年、パリの宝石職人Francois Kramer氏によって当初ベルト用のバックルとして作られたもので、その後ウージェニー皇后がストマッカー(胸当て)に作り直させたものです。 フランス王室の戴冠用ジュエリーの大半は1887年にオークションで売却されましたが、このボウブローチは米国社交界の華とうたわれたアスター氏(Caroline Astor)(※1)が8万5000ユーロ(約1400万円)で落札し、以後100年以上にわたりアスター家が所有していたものです。 ウージェニー皇后は、時代のファッション.リーダーとして「クリノリンの女王」と呼ばれました。 そのクリノリンを発明したオートクチュールの父といわれるシャルル・フレデリック・ウォースは、パウリーネ・メッテルニヒ公妃(オーストリア大使夫人)のドレスを手がけた事から彼女と友人だったウージェニー皇后の目にとまり、その後ウージェニーの宮廷クチュリエとしてパリにメゾンを開設し、1860年頃から上流階級の支持を得て活躍してゆきます。 今回はナポレオン3世妃,ウージェニーの生涯を追ってみます。 スペインのテバ伯爵家の出身の低位の家に膿まれ、8つから11歳迄厳格なカトリック教育をすることで知られるサクレクール寺院女子修道院で教育を受け、11歳の頃にブリストルにあるイギリス系の学校に姉妹は入れられましたが、家庭教師と共に?姉妹は脱走してしまいます。 父であるドン・シプリアーノはボナパルト主義者で家族内ではフランス語を日常語としていました。 最愛の父が亡くなると姉のパカは家督を相続し、1849年にウージェニーの初恋の相手の第15代アルバ公ヤコポ・フィッツ=ジェイムズ・ステュアートと結婚してしまい、ショックの為か男装などの奇行が5年ほど続きましたが、愛する姉夫妻を認めることでなんとか立ち直ります。 やがて彼女の美しさと勇敢さの評判はフランスだけではなく、ヨーロッパ各国へ伝わっていきました。 彼女は各国の王侯貴族から求婚されますがすべてを断り続け、やがて鉄の処女と言われるようになりました。 1848年にルイ=ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン3世)(※2)が第二共和政の大統領になると、ウジェニーは母とともにエリゼ宮での「皇子大統領」(Prince-Pr?sident)主催の舞踏会に姿を現しました。 これが未来の皇帝と出会った最初の機会です。 1853年1月30日、ウジェニーは前年にフランス皇帝に即位していたナポレオン3世と、ノートルダム大聖堂で結婚式を挙げます。 フランスにとって外国から妃を迎えるのはルイ16世以来のことでした。 フランスの代表的香水のひとつにゲラン(Guerlain)がありますが、1853年にはウジェニーの為にオー・デ・コロン・インベルアル(Eau de Cologne Imp?riale/)を作り、そのボトルにはボナパルト家の紋章ミツバチがほどこされています。 (※3) これ以来、ゲランは宮廷御用達となりました。 1855年、イギリス王室からの招待で皇帝と共にイギリスを公式訪問しました。 結婚を反対されたヴィクトリア女王と会うのが気がかりでしたが、この公式訪問は大成功に終わりました。 クリミヤ戦争における同盟関係を結ぶことができ、ウジェニーはヴィクトリア女王に非常に気に入られ生涯の友人となりました。 ウジェニーは公式訪問の際に王女のヴィッキー(女王の長女ヴィクトリア、のちのドイツ皇后)にそっくりな人形をプレゼントし、その後は人形に着させるドレスをフランスから贈り続け、最新流行のドレスをヴィッキーが着られるように配慮しました。 ヴィクトリア女王からは画家のフランツ・ヴィンターハルターを紹介され、ウジェニーの貴族的気品、ドレスの豪華さや伝説的な宝石は多くの肖像画に残されています。   フランツ・ヴィンターハルターの描くウージェニー...

クイーンアレクサンドラ

父はデンマーク国王クリスチャン9世、母は王妃ルイーゼ。 デンマーク国王クリスチャン9世の娘として首都コペンハーゲンで、1844年12月1日に誕生しました。 父が王位に就くまでは、財力がなかったためにデンマーク王室から無料で借りたコペンハーゲン市内の小さな家で暮らしていました。 家庭教師を雇う金銭的余裕もなかったためにアレクサンドラは妹弟ともに両親から教育を受け、英語はイギリス人看護婦とイギリス人牧師から習いました。 つまりアレクサンドラが8つになった頃に父親が突然王様になった訳ですね。 庶民的感覚と愛情ある家庭で育ったことが王室に入ってからの人生に大きな意味を持ってきます。 長兄にデンマーク王フレゼリク8世、弟にギリシャ王ゲオルギオス1世、妹にロシア皇帝アレクサンドル3世の皇后マリア(ダウマー)、ハノーファー王国の元王太子エルンスト・アウグストの妃テューラがいます。 なかでも妹のダウマー(後のロシア皇后マリア・フョードロヴナ)とは歳も近く、同じ部屋で育ったということもあり生涯大の仲良しでした。 ダウマとともに美貌の王女と呼ばれ、2人が結婚年齢に達するとヨーロッパの諸王室から縁談が舞い込んできます。 彼女が 16歳の時、プリンスオブウェールズ、アルバートエドワードの将来の妻としてビクトリア女王に選ばれました。 このときも自分の母と夫の国であるドイツと険悪なデンマーク王女に対して乗り気でなかったそうですが、実際会ったらあまりの美貌にこれなら女癖の悪い息子もおとなしくなると思ったそうです。 1863年にイギリス王太子アルバート・エドワードと結婚し、3男3女の母となります。 しかし、夫エドワードの不倫と冷え切った夫婦関係や、ドイツとデンマークが対立するなか祖国であるデンマークや兄の治めるギリシャの利益を促したりしたこともあり、ドイツびいきのヴィクトリア女王との愛憎表裏一体する複雑な確執などで心身ともに疲れ果てましたが、王太子妃時代には戦争で亡くなった遺族の経済援助のためイギリス陸海空軍人家族協会を設立したり、王妃時代はイギリス陸軍看護施設を設立したりと功績を残しています。 公共の場ではアレクサンドラは堂々と魅力的で、庶民的な愛情と陽気さやダンスやアイススケートや乗馬や福祉活動など、多くの社会活動を楽しんでいる様子は民間には人気がありました。 年をとっても美貌は衰えませんでしたが、病を得たり、期待していた長男を失ったり、夫は愛人であるアリス・ケッペルと目の前でいちゃついたり、ロシア革命でロシア皇太后となった妹は救いだしたものの、その息子や孫を亡くしたりと波瀾万丈です。 若いときに受けた手術による醜い傷跡が首にあり、それを隠すため宝石をちりばめたチョーカーをし、それぞれが王妃の作った流行となったことは有名ですが、夫エドワードが彼女を顧みなくなったのはこの傷跡を見たからだといわれています。 光あるところには影があるものなのですね。 3人目の子供ルイーズを出産後に合併症にかかって足を自由に動かす事ができなくなり、杖の代わりにパラソルを手にするようになるとパラソルが社交界で流行しました。 スイートピーが好きな花で、式典や晩餐会でスイートピーを飾らせたおかげで各国でスイートピーが有名になったそうです。 マラソンの距離が42.195kmという半端な距離になったのは、1908年のロンドンオリンピックの際にスタート地点は宮殿の庭で、ゴール地点は競技場のボックス席の前にとアレクサンドラが注文をつけたことに由来していて、385ヤードだけ延長され、それが現在まで続いているそうです。 長男の嫁が王室のしきたりにそって育児や教育を任せきりで自分で育児をしないのに口を出して仲が悪くなります。 今の嫁姑問題と同じですね。 寂しがる子供たちの面倒をよくみたそうですが、自分が愛情のある家庭で育ったからでしょう。 王室といいますのはおしなべて親子・家族が愛情でつながっていない冷たい関係のような気がいたします。 王室の人の人格に問題が多いのはそこにあるような気がしてなりません。 このかたは愛情ある家庭で育ち、一般的な感覚を持って王室に入った稀な方といえるでしょう。 美人でも、聡明でも、心優しくとも、大金持ちでも、王様であってすらしあわせになれるとは限りません。 そこに人生の難しさがありますね。 歴史は本当にいろんなことを教えてくれます。...

クイーンアレクサンドラ

父はデンマーク国王クリスチャン9世、母は王妃ルイーゼ。 デンマーク国王クリスチャン9世の娘として首都コペンハーゲンで、1844年12月1日に誕生しました。 父が王位に就くまでは、財力がなかったためにデンマーク王室から無料で借りたコペンハーゲン市内の小さな家で暮らしていました。 家庭教師を雇う金銭的余裕もなかったためにアレクサンドラは妹弟ともに両親から教育を受け、英語はイギリス人看護婦とイギリス人牧師から習いました。 つまりアレクサンドラが8つになった頃に父親が突然王様になった訳ですね。 庶民的感覚と愛情ある家庭で育ったことが王室に入ってからの人生に大きな意味を持ってきます。 長兄にデンマーク王フレゼリク8世、弟にギリシャ王ゲオルギオス1世、妹にロシア皇帝アレクサンドル3世の皇后マリア(ダウマー)、ハノーファー王国の元王太子エルンスト・アウグストの妃テューラがいます。 なかでも妹のダウマー(後のロシア皇后マリア・フョードロヴナ)とは歳も近く、同じ部屋で育ったということもあり生涯大の仲良しでした。 ダウマとともに美貌の王女と呼ばれ、2人が結婚年齢に達するとヨーロッパの諸王室から縁談が舞い込んできます。 彼女が 16歳の時、プリンスオブウェールズ、アルバートエドワードの将来の妻としてビクトリア女王に選ばれました。 このときも自分の母と夫の国であるドイツと険悪なデンマーク王女に対して乗り気でなかったそうですが、実際会ったらあまりの美貌にこれなら女癖の悪い息子もおとなしくなると思ったそうです。 1863年にイギリス王太子アルバート・エドワードと結婚し、3男3女の母となります。 しかし、夫エドワードの不倫と冷え切った夫婦関係や、ドイツとデンマークが対立するなか祖国であるデンマークや兄の治めるギリシャの利益を促したりしたこともあり、ドイツびいきのヴィクトリア女王との愛憎表裏一体する複雑な確執などで心身ともに疲れ果てましたが、王太子妃時代には戦争で亡くなった遺族の経済援助のためイギリス陸海空軍人家族協会を設立したり、王妃時代はイギリス陸軍看護施設を設立したりと功績を残しています。 公共の場ではアレクサンドラは堂々と魅力的で、庶民的な愛情と陽気さやダンスやアイススケートや乗馬や福祉活動など、多くの社会活動を楽しんでいる様子は民間には人気がありました。 年をとっても美貌は衰えませんでしたが、病を得たり、期待していた長男を失ったり、夫は愛人であるアリス・ケッペルと目の前でいちゃついたり、ロシア革命でロシア皇太后となった妹は救いだしたものの、その息子や孫を亡くしたりと波瀾万丈です。 若いときに受けた手術による醜い傷跡が首にあり、それを隠すため宝石をちりばめたチョーカーをし、それぞれが王妃の作った流行となったことは有名ですが、夫エドワードが彼女を顧みなくなったのはこの傷跡を見たからだといわれています。 光あるところには影があるものなのですね。 3人目の子供ルイーズを出産後に合併症にかかって足を自由に動かす事ができなくなり、杖の代わりにパラソルを手にするようになるとパラソルが社交界で流行しました。 スイートピーが好きな花で、式典や晩餐会でスイートピーを飾らせたおかげで各国でスイートピーが有名になったそうです。 マラソンの距離が42.195kmという半端な距離になったのは、1908年のロンドンオリンピックの際にスタート地点は宮殿の庭で、ゴール地点は競技場のボックス席の前にとアレクサンドラが注文をつけたことに由来していて、385ヤードだけ延長され、それが現在まで続いているそうです。 長男の嫁が王室のしきたりにそって育児や教育を任せきりで自分で育児をしないのに口を出して仲が悪くなります。 今の嫁姑問題と同じですね。 寂しがる子供たちの面倒をよくみたそうですが、自分が愛情のある家庭で育ったからでしょう。 王室といいますのはおしなべて親子・家族が愛情でつながっていない冷たい関係のような気がいたします。 王室の人の人格に問題が多いのはそこにあるような気がしてなりません。 このかたは愛情ある家庭で育ち、一般的な感覚を持って王室に入った稀な方といえるでしょう。 美人でも、聡明でも、心優しくとも、大金持ちでも、王様であってすらしあわせになれるとは限りません。 そこに人生の難しさがありますね。 歴史は本当にいろんなことを教えてくれます。...

ヴィクトリア女王

19世紀はイギリスの時代とも言えます。 そのイギリスの王であるヴィクトリア女王は19世紀の顔と言えるでしょう。 身長は約5フィート(150cm程度)の小柄な女性で、趣味は、乗馬と日記と汽車による旅行。 乗馬好きが高じて馬産も手がけ、1849年にはハンプトンコート王室牧場を再開させました。 競走馬は持たないという夫、アルバート公との約束で生産した馬はすべて売却していましたが、英牝馬三冠を制した名馬ラフレッシュの生産者としても名を残しています。 純白のウェディングドレスを初めて着用した人物であり、クリスマスツリーを飾る習慣(夫のためドイツの習慣で慰めたのが始まり)を広めた人物でもあります。 それまでの銀糸で刺繍した重々しいドレスとベルベットのマントという王室の伝統に従うことなく、オレンジの花を飾った白サテンのドレスに身を包み、髪にはオレンジの花輪とホニトンレース(※1)のベールを被ったスタイルは新聞や雑誌は大々的にとりあげられたちまち白いウエディングドレスが憧れの的となりました。 全てを国産のものであつらえたこと、当時のウエディングドレスの流行だった多産の象徴とされるオレンジの花を髪に飾り、ベ−ルを頭の後部で被るという国民のスタイルを取り入れたことが身近に感じられたこと、白いドレスは花嫁が純潔、無垢であることの証でありイギリス女王としてふさわしいと受け取られ、それまでの品行の悪い王室への不信感を覆す効果を持っていたことも見落としてはいけません。 それは女王になってからも国民からの風当たりの強かったヴィクトリアが国民に認められたことでもありました。 当時植民地から様々な宝石が手に入るようになり、産業革命により裕福層が拡大した背景もあり、女王自らジュエリーを奨励しました。 ニューリッチの女性たちは男性の経済的力量を誇る為に守られるべき存在であると考えられ、教育や働くことの必要性を求められず、外見を着飾ることを求められ、そういった女性達は競っておしゃれをしたのです。 また、夫のアルバート公が亡くなり喪に服されると庶民の間にも黒い服や黒いジェットのジュエリーが流行ります。 それでは19世紀という時代のアイコンでもあるヴィクトリア女王の生涯を振り返ってみたいと思います。 最後にジュエリーも掲載いたしますのでご覧くださいね。 「君臨すれども統治せず」の立憲君主制の理念によって議会制民主主義を貫き、ベンジャミン・ディズレーリ、そして夫である王配:アルバート公の助言によってイギリス帝国を繁栄させ、その治世は政治・経済のみならず、文化・技術面でも優れた成果を上げました。 この時代、イギリスは世界各地に植民地を有する大植民地帝国でもあり、ヴィクトリアは「インド女帝」の称号も得ています。 1819年、ハノ−ヴァ−朝第3代国王ジョ−ジ3世の4男ケント公エドワ−ドの一人娘として生を受けます。 母:ヴィクトリア・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルトは後のベルギー国王レオポルド1世の姉です。 レオポルドの妻は摂政王太子(のちのジョージ4世)の一人娘で、イギリスの王位継承者であるシャーロット王女(=ヴィクトリアの従姉)でありましたがシャーロットは1817年に死去し、ジョージ4世の直系の後継者はいなくなってしまいます。 ジョージ4世は、キャロライン王妃の死後再婚せず、愛人と隠遁生活に入ります。 このため独身生活を謳歌していたジョージ4世の弟たちは、王位継承者となるべき子をもうけようとにわかに結婚を始め、ヴィクトリアの父:ケント公も50歳で結婚しました。 ヴィクトリアの洗礼式に代父となったのは、ケント公の兄・摂政王太子ジョージ、イギリス訪問中でジョージとも仲が良かったロシア皇帝アレクサンドル1世でした。 代母はケント公爵夫人ヴィクトリアの実母アウグスタ、ケント公爵の姉ヴュルテンベルク公妃シャルロットでした。 洗礼を司ったカンタベリー大主教マナーズサットンが赤子の名を尋ねたとき、皇帝アレクサンドルが「アレクサンドリナ」と答えました。 聞き慣れない名前を娘に付けられたケント公爵はそれでも摂政王太子である兄の機嫌を損ねないように、「母親の名前を入れたい」と願い出て、「アレクサンドリナ・ヴィクトリア」という名前となったそうです。 異国風の変な名前なので公的に名乗るときは「ヴィクトリア・オブ・ケント」とされています。 1820年1月23日、ヴィクトリアが生後8ヶ月のとき、父ケント公爵が亡くなります。 母ケント公爵夫人ヴィクトリアはドイツ語を母語とし、ヴィクトリアも3歳までドイツ語のみを話す生活を送りました。 幼児期に英語の学習を始め、後に古典ギリシア語やラテン語、フランス語も学び、オペラを好んだためイタリア語の学習もしました。 ヴィクトリアが10歳のとき、伯父ジョージ4世は子供を残さずに死去し、王弟ウィリアム4世が王位を継承しました。...

ヴィクトリア女王

19世紀はイギリスの時代とも言えます。 そのイギリスの王であるヴィクトリア女王は19世紀の顔と言えるでしょう。 身長は約5フィート(150cm程度)の小柄な女性で、趣味は、乗馬と日記と汽車による旅行。 乗馬好きが高じて馬産も手がけ、1849年にはハンプトンコート王室牧場を再開させました。 競走馬は持たないという夫、アルバート公との約束で生産した馬はすべて売却していましたが、英牝馬三冠を制した名馬ラフレッシュの生産者としても名を残しています。 純白のウェディングドレスを初めて着用した人物であり、クリスマスツリーを飾る習慣(夫のためドイツの習慣で慰めたのが始まり)を広めた人物でもあります。 それまでの銀糸で刺繍した重々しいドレスとベルベットのマントという王室の伝統に従うことなく、オレンジの花を飾った白サテンのドレスに身を包み、髪にはオレンジの花輪とホニトンレース(※1)のベールを被ったスタイルは新聞や雑誌は大々的にとりあげられたちまち白いウエディングドレスが憧れの的となりました。 全てを国産のものであつらえたこと、当時のウエディングドレスの流行だった多産の象徴とされるオレンジの花を髪に飾り、ベ−ルを頭の後部で被るという国民のスタイルを取り入れたことが身近に感じられたこと、白いドレスは花嫁が純潔、無垢であることの証でありイギリス女王としてふさわしいと受け取られ、それまでの品行の悪い王室への不信感を覆す効果を持っていたことも見落としてはいけません。 それは女王になってからも国民からの風当たりの強かったヴィクトリアが国民に認められたことでもありました。 当時植民地から様々な宝石が手に入るようになり、産業革命により裕福層が拡大した背景もあり、女王自らジュエリーを奨励しました。 ニューリッチの女性たちは男性の経済的力量を誇る為に守られるべき存在であると考えられ、教育や働くことの必要性を求められず、外見を着飾ることを求められ、そういった女性達は競っておしゃれをしたのです。 また、夫のアルバート公が亡くなり喪に服されると庶民の間にも黒い服や黒いジェットのジュエリーが流行ります。 それでは19世紀という時代のアイコンでもあるヴィクトリア女王の生涯を振り返ってみたいと思います。 最後にジュエリーも掲載いたしますのでご覧くださいね。 「君臨すれども統治せず」の立憲君主制の理念によって議会制民主主義を貫き、ベンジャミン・ディズレーリ、そして夫である王配:アルバート公の助言によってイギリス帝国を繁栄させ、その治世は政治・経済のみならず、文化・技術面でも優れた成果を上げました。 この時代、イギリスは世界各地に植民地を有する大植民地帝国でもあり、ヴィクトリアは「インド女帝」の称号も得ています。 1819年、ハノ−ヴァ−朝第3代国王ジョ−ジ3世の4男ケント公エドワ−ドの一人娘として生を受けます。 母:ヴィクトリア・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルトは後のベルギー国王レオポルド1世の姉です。 レオポルドの妻は摂政王太子(のちのジョージ4世)の一人娘で、イギリスの王位継承者であるシャーロット王女(=ヴィクトリアの従姉)でありましたがシャーロットは1817年に死去し、ジョージ4世の直系の後継者はいなくなってしまいます。 ジョージ4世は、キャロライン王妃の死後再婚せず、愛人と隠遁生活に入ります。 このため独身生活を謳歌していたジョージ4世の弟たちは、王位継承者となるべき子をもうけようとにわかに結婚を始め、ヴィクトリアの父:ケント公も50歳で結婚しました。 ヴィクトリアの洗礼式に代父となったのは、ケント公の兄・摂政王太子ジョージ、イギリス訪問中でジョージとも仲が良かったロシア皇帝アレクサンドル1世でした。 代母はケント公爵夫人ヴィクトリアの実母アウグスタ、ケント公爵の姉ヴュルテンベルク公妃シャルロットでした。 洗礼を司ったカンタベリー大主教マナーズサットンが赤子の名を尋ねたとき、皇帝アレクサンドルが「アレクサンドリナ」と答えました。 聞き慣れない名前を娘に付けられたケント公爵はそれでも摂政王太子である兄の機嫌を損ねないように、「母親の名前を入れたい」と願い出て、「アレクサンドリナ・ヴィクトリア」という名前となったそうです。 異国風の変な名前なので公的に名乗るときは「ヴィクトリア・オブ・ケント」とされています。 1820年1月23日、ヴィクトリアが生後8ヶ月のとき、父ケント公爵が亡くなります。 母ケント公爵夫人ヴィクトリアはドイツ語を母語とし、ヴィクトリアも3歳までドイツ語のみを話す生活を送りました。 幼児期に英語の学習を始め、後に古典ギリシア語やラテン語、フランス語も学び、オペラを好んだためイタリア語の学習もしました。 ヴィクトリアが10歳のとき、伯父ジョージ4世は子供を残さずに死去し、王弟ウィリアム4世が王位を継承しました。...

ジョゼフィーヌのクチュリエ ルイ・イボリット・ルロワ

ルイ・イボリット・ルロワ(1763~1829) はローザ・ベルダンがマリー・アントワネットに近づきファッション界の女王にのし上がったように、ナポレオン妃ジョゼフィーヌに近づきファッション界を牛耳った人物です。 オペラ座の道具係の息子として生まれ、若い頃は結髪師を目指しますが後に婦人服の製作の道に入り独立しリシュリュー街(当時一番のファッション街)にブティックをだします。 その頃はちょうど革命期にあたりましたが、革命ファッションが気に入らず王朝風の服で通したそうです。 革命のただ中、世の中が神経質になっているこの時期にそんな格好をすることは殺されてもおかしくないことですから随分肝のすわった人物です。 いよいよ国民公会に呼び出されてしまい、服装を改めるように勧告を受けてしまいます。 絶対的な力を持った国民公会に逆らえばギロチンさえ考えられます。 そこで彼が考えだしたのが愛国ファッションでした。 新国旗の3色を基調とし、縁取りには『自由・平等・連帯』、ベルトには『自由か、死か』といったフレーズが縫い込まれた物です。 これが大好評となり、彼のキャリアの始まりとなります。 1794年、ロベスピエールがギロチンにかけられ革命後の恐怖政治が終わりを告げます。 息苦しい世風が一気に開放的なものになります。 革命期に生まれた新支配階級の婦人たちは革命前の支配階級の婦人と同じく流行を競い合うようになります。 さて、当時の支配階級にはロンシャン詣(※1)でというものがありました。 新支配階級の婦人たちのファッションを競い合う場としてロンシャンが舞台となったのです。 他にも観劇・サロンでの社交などがファッションの場となりましたが毛九名前と同じように新しい支配階級でもこれらが使われ同じ機能を果たしました。 舞台が整い、ファッションは競われ、次第に大胆になってゆきます。 しかし革命前のファッションには戻りたくありません。 そこで登場しましたのが『新古代風』と呼ばれるギリシャ・ローマ風のものです。 それまでの華美な色彩はなりを潜め淡い色がはやり、過剰な装飾は廃し、コルセットを外し、ハイウエストでドレープのあるストレートなドレスは女性の体の線を自然に見せることができ、動きやすく、苦しくないものでした。 それは時代の民主化・解放的・進歩的という風潮とマッチしたものでした。 ルロワはこの流れにのりエジプトの土の色、ギリシャの大理石の色を取り入れこのモードに刺繍や宝石をちりばめスタイルを確立してゆきます。 革命で亡命していた貴族たちがパリに戻ってくるようになると新しい社交界に生きたマネキンとして共同経営者のボノー婦人に自分のニューモードを着せて社交の場で宣伝させるなどの戦略もうっています。 ナポレオンの未来を予見するかのように小間使いや家令を買収してジョゼフィーヌに接近し御用達となります。 先見の明があるというか、やり手です。 ナポレオンの戴冠の時のジョゼフィーヌの衣装はルロワの手になるものです。 馬に乗ったナポレオンのアルプス越えで有名なダヴィッドの絵にありますね。   ワイドビジョンで左右にもっと描かれていますがカットしました。  ...

ジョゼフィーヌのクチュリエ ルイ・イボリット・ルロワ

ルイ・イボリット・ルロワ(1763~1829) はローザ・ベルダンがマリー・アントワネットに近づきファッション界の女王にのし上がったように、ナポレオン妃ジョゼフィーヌに近づきファッション界を牛耳った人物です。 オペラ座の道具係の息子として生まれ、若い頃は結髪師を目指しますが後に婦人服の製作の道に入り独立しリシュリュー街(当時一番のファッション街)にブティックをだします。 その頃はちょうど革命期にあたりましたが、革命ファッションが気に入らず王朝風の服で通したそうです。 革命のただ中、世の中が神経質になっているこの時期にそんな格好をすることは殺されてもおかしくないことですから随分肝のすわった人物です。 いよいよ国民公会に呼び出されてしまい、服装を改めるように勧告を受けてしまいます。 絶対的な力を持った国民公会に逆らえばギロチンさえ考えられます。 そこで彼が考えだしたのが愛国ファッションでした。 新国旗の3色を基調とし、縁取りには『自由・平等・連帯』、ベルトには『自由か、死か』といったフレーズが縫い込まれた物です。 これが大好評となり、彼のキャリアの始まりとなります。 1794年、ロベスピエールがギロチンにかけられ革命後の恐怖政治が終わりを告げます。 息苦しい世風が一気に開放的なものになります。 革命期に生まれた新支配階級の婦人たちは革命前の支配階級の婦人と同じく流行を競い合うようになります。 さて、当時の支配階級にはロンシャン詣(※1)でというものがありました。 新支配階級の婦人たちのファッションを競い合う場としてロンシャンが舞台となったのです。 他にも観劇・サロンでの社交などがファッションの場となりましたが毛九名前と同じように新しい支配階級でもこれらが使われ同じ機能を果たしました。 舞台が整い、ファッションは競われ、次第に大胆になってゆきます。 しかし革命前のファッションには戻りたくありません。 そこで登場しましたのが『新古代風』と呼ばれるギリシャ・ローマ風のものです。 それまでの華美な色彩はなりを潜め淡い色がはやり、過剰な装飾は廃し、コルセットを外し、ハイウエストでドレープのあるストレートなドレスは女性の体の線を自然に見せることができ、動きやすく、苦しくないものでした。 それは時代の民主化・解放的・進歩的という風潮とマッチしたものでした。 ルロワはこの流れにのりエジプトの土の色、ギリシャの大理石の色を取り入れこのモードに刺繍や宝石をちりばめスタイルを確立してゆきます。 革命で亡命していた貴族たちがパリに戻ってくるようになると新しい社交界に生きたマネキンとして共同経営者のボノー婦人に自分のニューモードを着せて社交の場で宣伝させるなどの戦略もうっています。 ナポレオンの未来を予見するかのように小間使いや家令を買収してジョゼフィーヌに接近し御用達となります。 先見の明があるというか、やり手です。 ナポレオンの戴冠の時のジョゼフィーヌの衣装はルロワの手になるものです。 馬に乗ったナポレオンのアルプス越えで有名なダヴィッドの絵にありますね。   ワイドビジョンで左右にもっと描かれていますがカットしました。  ...