2008年 ルーブルは18日、ニューヨークのオークションハウス「クリスティーズ」で開かれたオークションでフランス皇帝ナポレオン3世の妻、ウージェニー皇后のために作られた141カラットのダイヤモンドをあしらったボウブローチを672万ユーロ(約11億円)で落札しました。
この歴史的なジュエリーは1855年、パリの宝石職人Francois Kramer氏によって当初ベルト用のバックルとして作られたもので、その後ウージェニー皇后がストマッカー(胸当て)に作り直させたものです。
フランス王室の戴冠用ジュエリーの大半は1887年にオークションで売却されましたが、このボウブローチは米国社交界の華とうたわれたアスター氏(Caroline Astor)(※1)が8万5000ユーロ(約1400万円)で落札し、以後100年以上にわたりアスター家が所有していたものです。
ウージェニー皇后は、時代のファッション.リーダーとして「クリノリンの女王」と呼ばれました。
そのクリノリンを発明したオートクチュールの父といわれるシャルル・フレデリック・ウォースは、パウリーネ・メッテルニヒ公妃(オーストリア大使夫人)のドレスを手がけた事から彼女と友人だったウージェニー皇后の目にとまり、その後ウージェニーの宮廷クチュリエとしてパリにメゾンを開設し、1860年頃から上流階級の支持を得て活躍してゆきます。
今回はナポレオン3世妃,ウージェニーの生涯を追ってみます。
スペインのテバ伯爵家の出身の低位の家に膿まれ、8つから11歳迄厳格なカトリック教育をすることで知られるサクレクール寺院女子修道院で教育を受け、11歳の頃にブリストルにあるイギリス系の学校に姉妹は入れられましたが、家庭教師と共に?姉妹は脱走してしまいます。
父であるドン・シプリアーノはボナパルト主義者で家族内ではフランス語を日常語としていました。
最愛の父が亡くなると姉のパカは家督を相続し、1849年にウージェニーの初恋の相手の第15代アルバ公ヤコポ・フィッツ=ジェイムズ・ステュアートと結婚してしまい、ショックの為か男装などの奇行が5年ほど続きましたが、愛する姉夫妻を認めることでなんとか立ち直ります。
やがて彼女の美しさと勇敢さの評判はフランスだけではなく、ヨーロッパ各国へ伝わっていきました。 彼女は各国の王侯貴族から求婚されますがすべてを断り続け、やがて鉄の処女と言われるようになりました。
1848年にルイ=ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン3世)(※2)が第二共和政の大統領になると、ウジェニーは母とともにエリゼ宮での「皇子大統領」(Prince-Pr?sident)主催の舞踏会に姿を現しました。
これが未来の皇帝と出会った最初の機会です。
1853年1月30日、ウジェニーは前年にフランス皇帝に即位していたナポレオン3世と、ノートルダム大聖堂で結婚式を挙げます。
フランスにとって外国から妃を迎えるのはルイ16世以来のことでした。 フランスの代表的香水のひとつにゲラン(Guerlain)がありますが、1853年にはウジェニーの為にオー・デ・コロン・インベルアル(Eau de Cologne Imp?riale/)を作り、そのボトルにはボナパルト家の紋章ミツバチがほどこされています。
(※3) これ以来、ゲランは宮廷御用達となりました。
1855年、イギリス王室からの招待で皇帝と共にイギリスを公式訪問しました。
結婚を反対されたヴィクトリア女王と会うのが気がかりでしたが、この公式訪問は大成功に終わりました。
クリミヤ戦争における同盟関係を結ぶことができ、ウジェニーはヴィクトリア女王に非常に気に入られ生涯の友人となりました。
ウジェニーは公式訪問の際に王女のヴィッキー(女王の長女ヴィクトリア、のちのドイツ皇后)にそっくりな人形をプレゼントし、その後は人形に着させるドレスをフランスから贈り続け、最新流行のドレスをヴィッキーが着られるように配慮しました。 ヴィクトリア女王からは画家のフランツ・ヴィンターハルターを紹介され、ウジェニーの貴族的気品、ドレスの豪華さや伝説的な宝石は多くの肖像画に残されています。
フランツ・ヴィンターハルターの描くウージェニー 翌年のパリ万国博覧会にはイギリス訪問のお礼に、イギリス王室の人々をフランスに招待しました。
1856年3月16日、ウジェニーは皇子ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ジャン・ジョゼフ・ボナパルト(ナポレオン4世)を生みます。
ウジェニーの美しさ、気品とマナーの魅力は皇帝支配の輝きに貢献し、フランス宮廷での彼女は社会的、文化的生活に重要な役割を演じました。
実はフランスに嫁いで間もなくから慈善活動に力を入れており、公務の合間には深々とヴェールをかぶり、お忍びで慈善バザーや病院を見舞っていました。
彼女の存在は女性の社会活動にも影響があり、1866年には女性を初めて電報局で雇用しています。 教職以外の女性の選択できる職業の始まりともいえます。
ウージェニーは、かねてからエリザベートと知り合いになりたく思っていました。
そんななか1867年、フランス皇帝夫妻は「調停訪問」としてザルツブルグを訪れました。
エリザベートはウージェニーをあまり気にかけていなかったのに対し、ウージェニーの方では身分の低い出なのを気にやんでいました。
やがてふたりは共に美容に関心が高かったので意見を交換したりしながら親しくなってゆきました。
やがてナポレオン3世の内政は乱れ始めます。
外交的にも優柔不断な決定を繰り返すうちに数回の暗殺未遂に遭い、からだも病気で衰え始めます。
それを埋めるかのようにウージェニーは次第に政治に関わっていくようになりました。
皇帝をたきつけてメキシコの内乱に介入し、ハプスブルク家のマクシミリアンを皇帝として送りみますが、マクシミリアンは誰の援護も受けられないまま内乱で処刑されてしまいました。
これにナポレオン3世とウージェニーに非難が集中しました。
1870年、普仏戦争(※4)でフランスが敗れ第二帝政が覆された後、怒った市民がテュイルリー宮を取り巻く中をウージェニーはハンカチ2枚と侍女をひとり連れただけで脱出し、イギリスへ逃れました。
彼女はマリー・アントワネットに傾向していて遺品の展示会を催すほど収集していました。
ウージェニー皇后も、マリー・アントワネットと同じくフランスを追われる身となったのです。
後日、休戦後はルイ・ナポレオン3世も解放され夫とともにイギリスへと亡命し、ケント州のチズルハースト(Chislehurst)に居住するようになりました。
イギリスでは王室や国民に歓迎されましたが1873年、ナポレオン3世が病死します。
息子のルイはイギリスではウールウィッチ砲兵学校に入学し、好成績で卒業しました。 ヴィクトリア女王にルルと愛称で呼ばれて寵愛され、末娘ベアトリス王女との縁談も持ち上がるほどでした。
ルイはイギリスへの恩返しとして1878年に勃発したズールー戦争に従軍し、アフリカで23歳で戦死してしまいました。
ウージニーは翌年南アフリカを訪れて、息子の最期の地を訪れています。
皇帝の死(1873年)から12年後、彼女はハンプシャーのファーンボロー(Farnborough)にある別荘“Cyrnos”(古代ギリシア語でコルシカを意味する)に引っ越しました(彼女は同じ名前の別荘を、かつてカンヌ近くのカプ=マルタン(Cap-Martin)にも建てていた)。
そこは彼女がの終の住処となり夫と息子のために教会を建てるなどして静かに暮らしていました。
ウジェニーは1920年7月にアルバ公を訪ねて故国スペインのマドリードに滞在していた際、94歳で亡くなりました。
身分の低いスペイン女性がフランス皇后となり社会的にはあり得ないくらいのサクセスではありますが,フランスを追われ、夫には先立たれ、愛する一人息子は亡くし異国で一人老いていった人生は幸せなものだったのでしょうか。
また、自分たちの君主であるルイ16世を処刑し、自分らが祭り上げた皇帝を追放してしまうフランスという国の特殊性も感じてしまいました。
ファーンボローの別荘 から見える聖マイケル修道院に、三人は眠っています。
ナポレオン三世からウジェニー皇后へのプレゼントされたハート形の上をリボンで結んだルビーのペンダントトップ。
キャロライン・ウェブスタース・ヘルメル・ホルン?・?アスター(1830年9月22日- 1908年10月30日) ニューヨーク生まれのオランダ貴族 キャロラインは、1854年にアメリカを代表する大富豪のアスター1族のウィリアム・アスター・ジュニアと結婚した。
ニューヨーク公立図書館他の公共事業、アスターコート、 アスタープレイス 、およびアスターアベニューなどニューヨーク市内各所に名を残す。 当時の社交界の顔の一つであり、有名なジュエリーコレクターでもあった。
ナポレオン3世 ナポレオン3世は、幼少から喘息だったこともあり、不潔極まりなかったパリを清潔な街にするべくセーヌ県知事オスマン に命じて、大規模な都市計画を始めます。
普仏戦争によりアルザス・ロレーヌ地方を喪失し、第一次世界大戦の禍根を残したことと、その帝位が降伏・革命で終わったことが長きにわたり評価を悪くしてきました。
しかしパリの大改造や、イギリスとの友好関係の構築、鉄道網の大幅な整備、イタリア統一戦争への介入によるサヴォワとニース地方の獲得といったおおいに評価すべき点もあります。
ラベル部分を取り囲むようにミツバチの姿が施されています。
※4 普仏戦争 1870年、スペイン王位継承権についてプロイセンと争い、ビスマルクの計略(エムス電報事件)により7月19日に宣戦布告する(普仏戦争)。
部下の失策により序盤から劣勢となり、9月2日のセダンの戦いに自ら出陣するも、腎臓結石で移動もままないままプロイセン軍の捕虜となった。
このためパリ市民の反感を買い、9月4日失脚。 第二帝政は幕を閉じ、ほぼ900年も続いたフランスの君主支配が終る。
勝利したプロイセンは全ドイツを統一し、ヴェルサイユ宮殿鏡の間でドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の戴冠式を行った。
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