ヴィクトリア女王

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19世紀はイギリスの時代とも言えます。

そのイギリスの王であるヴィクトリア女王は19世紀の顔と言えるでしょう。

身長は約5フィート(150cm程度)の小柄な女性で、趣味は、乗馬と日記と汽車による旅行。

乗馬好きが高じて馬産も手がけ、1849年にはハンプトンコート王室牧場を再開させました。

競走馬は持たないという夫、アルバート公との約束で生産した馬はすべて売却していましたが、英牝馬三冠を制した名馬ラフレッシュの生産者としても名を残しています。

純白のウェディングドレスを初めて着用した人物であり、クリスマスツリーを飾る習慣(夫のためドイツの習慣で慰めたのが始まり)を広めた人物でもあります。

それまでの銀糸で刺繍した重々しいドレスとベルベットのマントという王室の伝統に従うことなく、オレンジの花を飾った白サテンのドレスに身を包み、髪にはオレンジの花輪とホニトンレース(※1)のベールを被ったスタイルは新聞や雑誌は大々的にとりあげられたちまち白いウエディングドレスが憧れの的となりました。

全てを国産のものであつらえたこと、当時のウエディングドレスの流行だった多産の象徴とされるオレンジの花を髪に飾り、ベ−ルを頭の後部で被るという国民のスタイルを取り入れたことが身近に感じられたこと、白いドレスは花嫁が純潔、無垢であることの証でありイギリス女王としてふさわしいと受け取られ、それまでの品行の悪い王室への不信感を覆す効果を持っていたことも見落としてはいけません。

それは女王になってからも国民からの風当たりの強かったヴィクトリアが国民に認められたことでもありました。

当時植民地から様々な宝石が手に入るようになり、産業革命により裕福層が拡大した背景もあり、女王自らジュエリーを奨励しました。

ニューリッチの女性たちは男性の経済的力量を誇る為に守られるべき存在であると考えられ、教育や働くことの必要性を求められず、外見を着飾ることを求められ、そういった女性達は競っておしゃれをしたのです。

また、夫のアルバート公が亡くなり喪に服されると庶民の間にも黒い服や黒いジェットのジュエリーが流行ります。

それでは19世紀という時代のアイコンでもあるヴィクトリア女王の生涯を振り返ってみたいと思います。

最後にジュエリーも掲載いたしますのでご覧くださいね。

「君臨すれども統治せず」の立憲君主制の理念によって議会制民主主義を貫き、ベンジャミン・ディズレーリ、そして夫である王配:アルバート公の助言によってイギリス帝国を繁栄させ、その治世は政治・経済のみならず、文化・技術面でも優れた成果を上げました。

この時代、イギリスは世界各地に植民地を有する大植民地帝国でもあり、ヴィクトリアは「インド女帝」の称号も得ています。

1819年、ハノ−ヴァ−朝第3代国王ジョ−ジ3世の4男ケント公エドワ−ドの一人娘として生を受けます。

母:ヴィクトリア・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルトは後のベルギー国王レオポルド1世の姉です。

レオポルドの妻は摂政王太子(のちのジョージ4世)の一人娘で、イギリスの王位継承者であるシャーロット王女(=ヴィクトリアの従姉)でありましたがシャーロットは1817年に死去し、ジョージ4世の直系の後継者はいなくなってしまいます。

ジョージ4世は、キャロライン王妃の死後再婚せず、愛人と隠遁生活に入ります。

このため独身生活を謳歌していたジョージ4世の弟たちは、王位継承者となるべき子をもうけようとにわかに結婚を始め、ヴィクトリアの父:ケント公も50歳で結婚しました。

ヴィクトリアの洗礼式に代父となったのは、ケント公の兄・摂政王太子ジョージ、イギリス訪問中でジョージとも仲が良かったロシア皇帝アレクサンドル1世でした。

代母はケント公爵夫人ヴィクトリアの実母アウグスタ、ケント公爵の姉ヴュルテンベルク公妃シャルロットでした。

洗礼を司ったカンタベリー大主教マナーズサットンが赤子の名を尋ねたとき、皇帝アレクサンドルが「アレクサンドリナ」と答えました。

聞き慣れない名前を娘に付けられたケント公爵はそれでも摂政王太子である兄の機嫌を損ねないように、「母親の名前を入れたい」と願い出て、「アレクサンドリナ・ヴィクトリア」という名前となったそうです。

異国風の変な名前なので公的に名乗るときは「ヴィクトリア・オブ・ケント」とされています。

1820年1月23日、ヴィクトリアが生後8ヶ月のとき、父ケント公爵が亡くなります。

母ケント公爵夫人ヴィクトリアはドイツ語を母語とし、ヴィクトリアも3歳までドイツ語のみを話す生活を送りました。

幼児期に英語の学習を始め、後に古典ギリシア語やラテン語、フランス語も学び、オペラを好んだためイタリア語の学習もしました。

ヴィクトリアが10歳のとき、伯父ジョージ4世は子供を残さずに死去し、王弟ウィリアム4世が王位を継承しました。

ウィリアム4世には子がなく、ヴィクトリアは推定王位継承者となりました

(この時点では継承権はかなり下だったみたいです。) すると母:ケント公夫人は、ヴィクトリアを厳しい監視下に置くようになります。
1837年6月20日、ウィリアム4世の崩御から8年後、ヴィクトリアは18歳で即位しました。

ハノーヴァー朝の国王は代々ドイツのハノーファー王国(選帝侯国)の君主を兼ねていましたが、ハノーファーではサリカ法典による継承法により女性の統治が認められていませんでした。

そのためヴィクトリアはハノーファー王位を継承することなく、王位は叔父エルンスト・アウグストがその地位を継いでいます。

即位当初は首相のメルバーン子爵の助言により政治を行います。

しかし、メルバーン子爵を信頼するあまり1839年に彼が首相を辞した際、後任となるべきロバート・ピールと女官人事をめぐって対立し、組閣を承認せずメルバーン子爵を続投させ政権交代を阻止してしまいます。

ヴィクトリアが母方の従弟に当たるザクセン=コーブルク=ゴータ公子アルバート と初めて会ったのは16歳のときで、血縁関係の他に同じ主治医にかかっていたことから交際が深まりました。

女王に求婚することは許されなかったことからヴィクトリアは自分からアルバートに求婚します。

そして1840年2月10日、アルバートと挙式します。

1841年、メルバーン子爵が首相を再び辞した際には本来何らの権限のないアルバートが妥協案をもたらして、女王と新首相ピールを仲裁しました。

以後20年余りに渡り、アルバートは「良き夫」として女王を公私ともに支えました。

世界初の万博であるロンドン世界大博覧会を企画したのもアルバート公です。
9人の子供をもうけ、ドイツを中心とした各国に嫁がせ、晩年には「ヨーロッパの祖母」と呼ばれます。

しかし女王自身が血友病の因子を持っており、ロシア皇太子アレクセイを始めとする王室男子が次々と発病しました。

ヴィクトリア女王の傍系の親族には血友病保因者はいないため、ヴィクトリア女王が血友病の突然変異を持って生まれた為と考えられています。

以下ヴィクトリア女王の子供たちの嫁ぎ先と即位です。

ヴィクトリア(1840年-1901年) - ドイツ皇帝フリードリヒ3世皇后 アルバート・エドワード(1841年-1910年) - エドワード7世 アリス(1843年-1878年) - ヘッセン大公ルートヴィヒ4世大公妃 アルフレッド(1844年-1900年) - ザクセン=コーブルク=ゴータ公・エディンバラ公爵 ヘレナ(1846年-1922年) - シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公子クリスティアン夫人 ルイーズ(1848年-1939年) - アーガイル公爵ジョン・ダグラス・サザーランド・キャンベル夫人 アーサー(1850年-1942年) - コノート公爵 レオポルド(1853年-1884年) - オールバニ公爵 ベアトリス(1857年-1944年) - バッテンベルク公ハインリヒ・モーリッツ公妃 特に自身と同じ名前の長女ヴィクトリア王女とは最晩年まで親密で、数千通に及ぶ書簡が残されています。

夫のことを天使の様な・・と綴ったヴィクトリア王女への手紙は二人がお互いを大切に思い、慈しみあったことがうかがえます。

1857年になって、アルバートに対し正式に「王配殿下」(HRH the Prince consort)の称号を与えられます。 結婚21年目の1861年12月14日、42歳で夫アルバートが当時流行っていた腸チフスにかかりこの世を去ります。

女王は悲嘆し、常に喪服を着用し約2年に渡り公の場に姿を現さなくなりました。

これを国民は同情的であり、議会では攻撃される材料になりました。
後半生においては、ベンジャミン・ディズレーリ(※2)に絶大な信頼を寄せる反面、ウィリアム・グラッドストン(※3)とは対立しました。

馬丁(従僕)のジョン・ブラウンを寵愛し、恋仲にあると噂されて「ブラウン夫人」と影で呼ばれていました。

晩年はヴィクトリア&アルバート博物館やロイヤル・アルバート・ホールなどのアルバートを記念した事業に精力を注いでいます。

「ゴールデン・ジュビリー」と名付けられた即位50周年、「ダイヤモンド・ジュビリー」と名付けられた60周年の記念式典はそれぞれ盛大に行われています。

1901年1月22日81歳で亡くなりますが、その在位は64年におよび歴代最長のものでしかももっとも繁栄をもたらした統治者でもありました。

女王という大変な仕事を持ちながら、夫といたわりあい、幸せな家庭を築き、それは国民のあこがれとも規範ともなりました。

また、産業革命後の劇的に変化する社会の中で、恋愛結婚で幸せな家庭を築き激しい公務も勤めたヴィクトリア女王は社会参加する女性、働く新しい女性を体現したとも言えるでしょう。

さて、今回掲載しましたのは可憐な貴夫人のミニアチュールのブローチです。
どことなく少女の面影を残したこの肖像は若きヴィクトリア女王その人です。
初めに掲載しました年を召された堂々とした風格の肖像が有名ですが、若い頃は可憐ですね。

この若き女性が思いがけずイギリスの女王となり、その後ここで取り上げたような人生を送ったのです。

そう思いますと感慨深いものがありますね。

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※1 イギリス、デボンシャ−州のホニトンで主に生産されるボビンレ−ス ヴィクトリア女王の婚礼の際に使われた衣装とベールは200人以上の特に優れた熟練者が7ヶ月もかけて編んだものであった。

※2 初世ビーコンズフィールド伯ベンジャミン・ディズレーリ( 1804年12月21日 - 1881年4月19日) 1804年イタリア系ユダヤ人の歴史家アイザック・ディズレーリの長男として誕生。 13歳の時に洗礼を受けキリスト教徒となる。

1826年、22歳のときに発表した小説『ヴィヴィアン・グレイ(Vivian Grey)』が大きな反響を呼んだ。

これをきっかけに小説家として歩みはじめた。

1832年以来4度の選挙に出馬し、いずれも落選したが1837年に保守党(トーリー党)から議会に選出される 保守党ダービー内閣で3度蔵相を務め、その後首相を2度務めている(首相在任:1868年、1874年 - 1880年)。

現在に至るまでイギリス首相となったユダヤ人はディズレーリのみである。

著名な事績としては、2度目の首相在任中に行った1875年にはスエズ運河(国際スエズ運河会社)の買収がある(株式の44%、17万株を取得)。

なおこの買収に際して、英国政府はユダヤ人の大資本家ロスチャイルドから借金をしている。

1876年に連合王国貴族として伯爵を授けられ、ビーコンズフィールド伯となった。

1878年のベルリン会議では、ビスマルクの事実上の協力もあり、ロシアの南下政策を阻止することに成功した。

なお当時のイギリスでは大英国主義と小英国主義の2つの考え方があったが、ディズレーリは大英国主義を主張した。

小英国主義を主張した首相としては、彼の前後に在任した自由党のグラッドストンがいる。

ベルリン会議での外交的勝利の後、ヴィクトリア女王はディズレーリに公爵位(duke)を与えようとしたが、本人はこれを辞退し、ガーター勲章のみ受け取った。

1880年にアフガニスタンでアフガン戦争が、また南アフリカで第1次ボーア戦争が勃発し、この相次ぐ反乱・戦争でイギリスは苦戦を強いられ、これによりディズレーリは求心力を失い同年に行われた総選挙で敗北を喫し、責任を取って辞職。

翌1881年に病死した。

※3 ウィリアム・エワート・グラッドストン(William Ewart Gladstone, 1809年12月29日 - 1898年5月19日) 1809年にリヴァプールのスコットランド系の豪商ジョン・グラッドストン(en:Sir John Gladstone, 1st Baronet)の四男として生まれる。

1828年にイートン校・オックスフォード大学に学び、1831年に古典と数学の最優秀成績者として学位を取得した。

1833年より保守党に所属する下院議員となり、1835年に植民次官、1843年に商務院総裁、1845年に植民相を歴任、1846年穀物法の廃止のさいロバート・ピールを支持し、保守党からは次第に離れ、1852年アバディーン連立内閣に蔵相として入閣。

1855年に辞職して、1858年に「ホメロス研究」を発表する。

1859年から1866年にかけて再び蔵相を務め、1867年に自由党党首となる。

1868年から1874年に首相としてアイルランド国教廃止、第1次アイルランド土地法・軍制改革・秘密投票法・司法制度の改革を成立させた。

1880年から1885年の第2次グラッドストン内閣では第3次選挙法改正を行う。

愛称GOM(偉大なる老人、Grand Old Man)で呼ばれ親しまれたが、1885年スーダンの反乱に関与した英国軍を救出に向かったチャールズ・ゴードン少将が戦死した際には、それをもじってMOG(ゴードンの殺人者、Murderer of Gordon)と呼び、非難を呼び第2次内閣崩壊のきっかけともなった。

1886年の第3次内閣はアイルランド自治問題で崩壊。
1892年から1894年の第4次内閣の時に提出したアイルランド自治法案は上院で否決された。

84歳で首相を解任され89歳で亡くなる。

アヘン戦争の際は議会において反対の演説を行ったが、登壇前にはいつもアヘン入りのコーヒーを飲んでいることは有名であった。

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