スタイルについて

19世紀のファッションスタイル

18世紀からファッションの影響力は男性はイギリスの紳士服、女性はフランスの婦人服という傾向がありましたが、19世紀に入ると新興富裕層の台頭や産業革命による生産体制の変化によりこの傾向は一層明確なものとなりました。 流行のサイクルは社会が複雑になってゆく中、様々な要因により短期間の流行となってゆきました。 19世紀初頭ジョージ・ブランメルが提唱するダンディズムによりそれを指標としたメンズファッションが19世紀末までに確立され、それは現代へ受け継がれているものでもあります。 1820〜1830年代 絵画や文学・演劇のロマン主義を受け、ファッションにもロマン主義の影響が見られるようになります。 幻想的・理想的・異国趣味という指向をもつロマン主義では女性はか弱くはかなく男性に従順なものとされ、健康的な快活さは下品とされ、青白い顔が好まれました。 クラッシクバレエのチュチュもこの頃に作られたものです。 その影響か、スカート丈はそれまでより短くなります。 18世紀以来高くなっていたウエストラインが元の低い位置に戻り、ウエストを細くみせるためコルセットが復活、スカートがふくらみ始めます。 この時代の特徴的なジゴ袖といわれる肩から袖口まで大きくふくらんだ袖は1830〜1835年にかけて極端に大きくなります。 ネックラインは下がり、夜のドレス特に胸元が大きく空いたものとなり、昼間は開いたネックラインをケープやショールを使って控えめに見せた。 この時期に始まった縦長にカールさせ両脇にたらした髪型は19世紀半ばまで続きました。 帽子は大きなモノにリボン・造化・宝石で飾られたものが流行りました。 1840~1850年代 シルエットに変わりはありませんが極端なパターンは廃れ、より女性性が強調されウエストラインはさらに下がり、スカートはペティコートを何枚も重ねますます膨らみます。 50年代のスカートにはフリルの段飾りが付きます。 30年代短かったスカートは40年代は地面に届く長さになります。 レースやフリルがたれる襟、それまで極端に膨らんだジゴ袖は襟と一体化した袖や袖口だけ膨らんだものへ変わります。 帽子はボンネットなどの小さなものになります。 上流の婦人に求められるものは控えめで夫に献身的であり、夫に守られた弱い存在であり、労働は悪徳というものでした。 クリノリン 「クリノリン」とは馬の尻尾の毛を指す「クラン(crin)」と、麻布を指す「ラン(lin)」を合成してできた言葉。もとはスカートを膨らませるためにペチコート(スカートの中に入れる釣り鐘型フレーム)の繊維素材として使われた馬の毛入りの木綿(もしくは麻)だったが、そのままスカートのスタイル名として使われた。 1,830年頃に作られた、馬の毛を織り込んで硬くしたペチコート用の木綿、または麻。 それまでスカートを膨らませるために何枚も重ね履きする必要のあったペチコートに変わってドーム型のシルエットが容易に得られるようになった。1850年代後半にスカートを膨らませるために発明された鯨ひげや針金を輪状にして重ねた骨組みの下着である(後に材質は変化)。1860年代に入るとクリノリンはその形を変化させ、さまざまなバリエーションが生まれた。ヴィクトリア朝時代のイギリス女性の間で爆発的に広まりこのクリノリンによってスカートの裾は大きく広がれば広がるほど良いという風潮になった。クリノリンが巨大化した理由の一つが1856年、皇太子(ナポレオン4世)を身ごもっていたフランスのウジェニー皇后である。彼女は姿態の不恰好を隠すためにクリノリンを極端に拡大して使っていた。それが新しいモードとしてサロンに受け入れられ、1850年代末には、クリノリンの大きさは最大値に達した。この巨大化は1860年代まで続いた。 しかし動くたびにクリノリンが引っかかって転倒したり、暖炉などの火がスカートに引火して火傷をしたりという事故が多発することになった。一説に年間3,000人の人間がクリノリンによる事故で死亡し、20,000人の人間が事故にあったといわれる。 バッスルスタイル 1,864年には後ろだけ膨らみを残したり、単純な輪ではなくてスカートを自然な形に成形するような形状のものも使われるようになりました。

19世紀のファッションスタイル

18世紀からファッションの影響力は男性はイギリスの紳士服、女性はフランスの婦人服という傾向がありましたが、19世紀に入ると新興富裕層の台頭や産業革命による生産体制の変化によりこの傾向は一層明確なものとなりました。 流行のサイクルは社会が複雑になってゆく中、様々な要因により短期間の流行となってゆきました。 19世紀初頭ジョージ・ブランメルが提唱するダンディズムによりそれを指標としたメンズファッションが19世紀末までに確立され、それは現代へ受け継がれているものでもあります。 1820〜1830年代 絵画や文学・演劇のロマン主義を受け、ファッションにもロマン主義の影響が見られるようになります。 幻想的・理想的・異国趣味という指向をもつロマン主義では女性はか弱くはかなく男性に従順なものとされ、健康的な快活さは下品とされ、青白い顔が好まれました。 クラッシクバレエのチュチュもこの頃に作られたものです。 その影響か、スカート丈はそれまでより短くなります。 18世紀以来高くなっていたウエストラインが元の低い位置に戻り、ウエストを細くみせるためコルセットが復活、スカートがふくらみ始めます。 この時代の特徴的なジゴ袖といわれる肩から袖口まで大きくふくらんだ袖は1830〜1835年にかけて極端に大きくなります。 ネックラインは下がり、夜のドレス特に胸元が大きく空いたものとなり、昼間は開いたネックラインをケープやショールを使って控えめに見せた。 この時期に始まった縦長にカールさせ両脇にたらした髪型は19世紀半ばまで続きました。 帽子は大きなモノにリボン・造化・宝石で飾られたものが流行りました。 1840~1850年代 シルエットに変わりはありませんが極端なパターンは廃れ、より女性性が強調されウエストラインはさらに下がり、スカートはペティコートを何枚も重ねますます膨らみます。 50年代のスカートにはフリルの段飾りが付きます。 30年代短かったスカートは40年代は地面に届く長さになります。 レースやフリルがたれる襟、それまで極端に膨らんだジゴ袖は襟と一体化した袖や袖口だけ膨らんだものへ変わります。 帽子はボンネットなどの小さなものになります。 上流の婦人に求められるものは控えめで夫に献身的であり、夫に守られた弱い存在であり、労働は悪徳というものでした。 クリノリン 「クリノリン」とは馬の尻尾の毛を指す「クラン(crin)」と、麻布を指す「ラン(lin)」を合成してできた言葉。もとはスカートを膨らませるためにペチコート(スカートの中に入れる釣り鐘型フレーム)の繊維素材として使われた馬の毛入りの木綿(もしくは麻)だったが、そのままスカートのスタイル名として使われた。 1,830年頃に作られた、馬の毛を織り込んで硬くしたペチコート用の木綿、または麻。 それまでスカートを膨らませるために何枚も重ね履きする必要のあったペチコートに変わってドーム型のシルエットが容易に得られるようになった。1850年代後半にスカートを膨らませるために発明された鯨ひげや針金を輪状にして重ねた骨組みの下着である(後に材質は変化)。1860年代に入るとクリノリンはその形を変化させ、さまざまなバリエーションが生まれた。ヴィクトリア朝時代のイギリス女性の間で爆発的に広まりこのクリノリンによってスカートの裾は大きく広がれば広がるほど良いという風潮になった。クリノリンが巨大化した理由の一つが1856年、皇太子(ナポレオン4世)を身ごもっていたフランスのウジェニー皇后である。彼女は姿態の不恰好を隠すためにクリノリンを極端に拡大して使っていた。それが新しいモードとしてサロンに受け入れられ、1850年代末には、クリノリンの大きさは最大値に達した。この巨大化は1860年代まで続いた。 しかし動くたびにクリノリンが引っかかって転倒したり、暖炉などの火がスカートに引火して火傷をしたりという事故が多発することになった。一説に年間3,000人の人間がクリノリンによる事故で死亡し、20,000人の人間が事故にあったといわれる。 バッスルスタイル 1,864年には後ろだけ膨らみを残したり、単純な輪ではなくてスカートを自然な形に成形するような形状のものも使われるようになりました。

ロシアものの世界

何年か前の買い付けのときに、コベントガーデンのオペラハウスで2本のオペラをみました。ビゼーの「カルメン」とチャイコフスキーの『スペードの女王』です。 『カルメン」も面白かったのですが、初めてみたロシアのオペラが今までみていたイタリアやドイツのオペラと感覚的にあまりにも異次元なのでビックリしてしまいました。 くっ、暗い!暗すぎるっ。 演出とダークなトーンの舞台美術の印象もあったのですが、主役2人と指揮者がロシア人で、なんかヨーロッパ系と全然顔が違うんです。 政治家もフルシチョフ、ゴルバチョフ、今の影の大統領といわれるプーチンさんも丸顔ですよね。 亡くなったパバロッテイやホセ,カレーラス等も丸顔といえばいえますが,イタリア系やスペイン系の男性特有のフェロモンというか愛嬌の様なものがあって華やかな印象がありますが,それが無いんですよ、ロシア人には。 『スペードの女王」の主役2人もなんかジャガイモみたいな感じで華やかさのかけらも無いタイプ。 ですがチャイコフスキーの旋律と舞台美術と相まって、なんかゴシックホラーみたいな不思議な魅力のある舞台でした。 ジュエリーのジャンルの中でもロシア製のものをこよなく愛しております。 今店にあるものは3点と少ないのですが,ファベルジェのエッグ型ペンダントとソーダライトにサファイヤとルビーをあしらったエッグペンダント、ロシアらしい妙な迫力があって一目で魅了されて手に入れたサファイヤリングです。 このリングなんて結構大きなダイアモンドが入っているのに,暗い事この上もありません。 好きな人にはそこがキモなんですが。 フランスモノの華やかでプリティな世界の対局にある様な気がします。 どちらも好きですけどね。 なにしろ、ロシアものには滅多にはお目にかかれませんので実際に手に入った時の嬉しさは特別なのです。 そして長く持っていても決して飽きがこないというか、むしろ余計に愛着が増す気がします。 うーん恐るべし!ロシアものの世界。 アンティークエタラージュでは現代のお洋服でも使えるきちんとした本物のアンティークジュエリーであることにこだわりを持ったセレクションと、可愛らしいモノからミュージアムピースまで、幅広いコレクションがあなたをお待ちしています。 天使のモチーフの数の多さも特徴の一つです。 アンティークジュエリーを愛するみなさまのお越しをお待ちしております。 移転を機に、お客さまがお使いにならなくなったアンティークジュエリーのお預かりも始めました。 まずは「お預かり」のご案内 をご覧ください。 『エタラージュがあなたの街へ』 詳しくはこちらをご覧ください。 『あなたのお店でアンティークジュエリーを扱ってみませんか』 詳しくはこちらをご覧ください。 ウェブサイトトップ:

ロシアものの世界

何年か前の買い付けのときに、コベントガーデンのオペラハウスで2本のオペラをみました。ビゼーの「カルメン」とチャイコフスキーの『スペードの女王』です。 『カルメン」も面白かったのですが、初めてみたロシアのオペラが今までみていたイタリアやドイツのオペラと感覚的にあまりにも異次元なのでビックリしてしまいました。 くっ、暗い!暗すぎるっ。 演出とダークなトーンの舞台美術の印象もあったのですが、主役2人と指揮者がロシア人で、なんかヨーロッパ系と全然顔が違うんです。 政治家もフルシチョフ、ゴルバチョフ、今の影の大統領といわれるプーチンさんも丸顔ですよね。 亡くなったパバロッテイやホセ,カレーラス等も丸顔といえばいえますが,イタリア系やスペイン系の男性特有のフェロモンというか愛嬌の様なものがあって華やかな印象がありますが,それが無いんですよ、ロシア人には。 『スペードの女王」の主役2人もなんかジャガイモみたいな感じで華やかさのかけらも無いタイプ。 ですがチャイコフスキーの旋律と舞台美術と相まって、なんかゴシックホラーみたいな不思議な魅力のある舞台でした。 ジュエリーのジャンルの中でもロシア製のものをこよなく愛しております。 今店にあるものは3点と少ないのですが,ファベルジェのエッグ型ペンダントとソーダライトにサファイヤとルビーをあしらったエッグペンダント、ロシアらしい妙な迫力があって一目で魅了されて手に入れたサファイヤリングです。 このリングなんて結構大きなダイアモンドが入っているのに,暗い事この上もありません。 好きな人にはそこがキモなんですが。 フランスモノの華やかでプリティな世界の対局にある様な気がします。 どちらも好きですけどね。 なにしろ、ロシアものには滅多にはお目にかかれませんので実際に手に入った時の嬉しさは特別なのです。 そして長く持っていても決して飽きがこないというか、むしろ余計に愛着が増す気がします。 うーん恐るべし!ロシアものの世界。 アンティークエタラージュでは現代のお洋服でも使えるきちんとした本物のアンティークジュエリーであることにこだわりを持ったセレクションと、可愛らしいモノからミュージアムピースまで、幅広いコレクションがあなたをお待ちしています。 天使のモチーフの数の多さも特徴の一つです。 アンティークジュエリーを愛するみなさまのお越しをお待ちしております。 移転を機に、お客さまがお使いにならなくなったアンティークジュエリーのお預かりも始めました。 まずは「お預かり」のご案内 をご覧ください。 『エタラージュがあなたの街へ』 詳しくはこちらをご覧ください。 『あなたのお店でアンティークジュエリーを扱ってみませんか』 詳しくはこちらをご覧ください。 ウェブサイトトップ:

アール・デコの女性達

アールデコのジュエリーというと自立した女性が浮かびます。この時代の男と対等に渡り合った女性がいるからでしょう。しかしこの時代の女性の事をいろんな本で読んでいきますと、この自意識を持つ自立した自由な女性達は時代の流れの中で黙殺されてゆき、流れは戦争へとなだれ込みます。何を持ってアールデコの女達の定義にするかを考えました。ひとつの方法論としてアールヌーボーの代表的なイメージを体現する女性達と比較すると理解しやすいのではないかと思います。サラ・ベルナール ※1ロイ・フラー、※2他にもラ・パイブァ ※3 の名前が浮かびます。たいしてアールデコ期の著名人というとアメリア・イアハート ※4ナンシー・キュナード ※5タマラ・レンピッカ ※6 などでしょうか。アールヌーボー期の女性の職業が女優、ダンサー、高級娼婦と男性に依存したきわめて特殊な職業?なのに比べてアール・デコの女性はアメリア・イアハートの女性パイロット、最初はただの遊び人ですが後に当時パリでは珍しかった黒人男性と結婚して出版所を始めたナンシー、キュナードにタマラ・レンピッカの画家とまあ特殊ではありますが、ある面現代でも通用する職業を持った自立した女達といえそうです。それと何より、飛行機、船、車と乗り物とスピードに関連するイメージが特徴的な事です。アメリア・イアハートの女性パイロットは勿論、ナンシー・キュナードはカッサンドロ作のポスターで有名なキュナード汽船の一族ですし、タマラレンピッカのオープンカーに乗る自画像は有名です。カッサンドロ作 キューナード汽船のポスタータマラ作 ブガッティに乗るタマラ男性だけに許されていたはずの飛行機や車などの境界線上をやすやすと乗り越えて疾走する女達、一般的なわけでは無かったでしょうが、だからこそ世の中の人々は喝采したのでしょう。ロイ、フラーとアメリア、イアハートはアメリカ人ですがロイ、フラーが世界的に有名になったのはパリ万博のエクゼビションでのことでした。ナンシー、キュナードは財閥の娘で芸術家のミューズとして有名ですが、マン・レイがパリで撮った一枚の写真の喚起力が無かったら世の中から忘れられていたでしょう。マン・レイ撮影 ナンシー・キューナードタマラ・レンピッカは亡命ロシア人で、戦争直前にアメリカに移り、1943年アメリカに国籍も移し、最後はメキシコで亡くなりますが全盛期の発表場所はもちろんパリで、社交界のスターになります。こうして見るとアールヌーボー期の女性も、アメリア・イアハート以外みなパリという都会がキイワードといえるのではないでしょうか。いえ、むしろこの中にパリを必要としないで世界に名を残したアメリカ人の女性が一人いることこそ、これ以降時代のアイコンとなる女性がグレタ・ガルボ.マリア・カラス、ジャッキー・ケネデイー等アメリカ中心になっていったことの先駆けといえる様な気がします。戦争が彼女達の生きる場所を奪ったように思いますが,女性が再び自己を主張しますのは70年代の反戦活動とともに生まれた女性解放運動ではないでしょうか。しかし,そのアプローチは全く違った物です。世界の中心がパリ・ヨーロッパからアメリカへ。アンテイークジュエリーの流れの終焉もやはりこの事と無縁の出来事とは思えません。 アンティークエタラージュでは現代のお洋服でも使えるきちんとした本物のアンティークジュエリーであることにこだわりを持ったセレクションと、可愛らしいモノからミュージアムピースまで、幅広いコレクションがあなたをお待ちしています。 天使のモチーフの数の多さも特徴の一つです。 アンティークジュエリーを愛するみなさまのお越しをお待ちしております。 移転を機に、お客さまがお使いにならなくなったアンティークジュエリーのお預かりも始めました。 まずは「お預かり」のご案内 をご覧ください。 『エタラージュがあなたの街へ』 詳しくはこちらをご覧ください。 『あなたのお店でアンティークジュエリーを扱ってみませんか』 詳しくはこちらをご覧ください。 ウェブサイトトップ:

アール・デコの女性達

アールデコのジュエリーというと自立した女性が浮かびます。この時代の男と対等に渡り合った女性がいるからでしょう。しかしこの時代の女性の事をいろんな本で読んでいきますと、この自意識を持つ自立した自由な女性達は時代の流れの中で黙殺されてゆき、流れは戦争へとなだれ込みます。何を持ってアールデコの女達の定義にするかを考えました。ひとつの方法論としてアールヌーボーの代表的なイメージを体現する女性達と比較すると理解しやすいのではないかと思います。サラ・ベルナール ※1ロイ・フラー、※2他にもラ・パイブァ ※3 の名前が浮かびます。たいしてアールデコ期の著名人というとアメリア・イアハート ※4ナンシー・キュナード ※5タマラ・レンピッカ ※6 などでしょうか。アールヌーボー期の女性の職業が女優、ダンサー、高級娼婦と男性に依存したきわめて特殊な職業?なのに比べてアール・デコの女性はアメリア・イアハートの女性パイロット、最初はただの遊び人ですが後に当時パリでは珍しかった黒人男性と結婚して出版所を始めたナンシー、キュナードにタマラ・レンピッカの画家とまあ特殊ではありますが、ある面現代でも通用する職業を持った自立した女達といえそうです。それと何より、飛行機、船、車と乗り物とスピードに関連するイメージが特徴的な事です。アメリア・イアハートの女性パイロットは勿論、ナンシー・キュナードはカッサンドロ作のポスターで有名なキュナード汽船の一族ですし、タマラレンピッカのオープンカーに乗る自画像は有名です。カッサンドロ作 キューナード汽船のポスタータマラ作 ブガッティに乗るタマラ男性だけに許されていたはずの飛行機や車などの境界線上をやすやすと乗り越えて疾走する女達、一般的なわけでは無かったでしょうが、だからこそ世の中の人々は喝采したのでしょう。ロイ、フラーとアメリア、イアハートはアメリカ人ですがロイ、フラーが世界的に有名になったのはパリ万博のエクゼビションでのことでした。ナンシー、キュナードは財閥の娘で芸術家のミューズとして有名ですが、マン・レイがパリで撮った一枚の写真の喚起力が無かったら世の中から忘れられていたでしょう。マン・レイ撮影 ナンシー・キューナードタマラ・レンピッカは亡命ロシア人で、戦争直前にアメリカに移り、1943年アメリカに国籍も移し、最後はメキシコで亡くなりますが全盛期の発表場所はもちろんパリで、社交界のスターになります。こうして見るとアールヌーボー期の女性も、アメリア・イアハート以外みなパリという都会がキイワードといえるのではないでしょうか。いえ、むしろこの中にパリを必要としないで世界に名を残したアメリカ人の女性が一人いることこそ、これ以降時代のアイコンとなる女性がグレタ・ガルボ.マリア・カラス、ジャッキー・ケネデイー等アメリカ中心になっていったことの先駆けといえる様な気がします。戦争が彼女達の生きる場所を奪ったように思いますが,女性が再び自己を主張しますのは70年代の反戦活動とともに生まれた女性解放運動ではないでしょうか。しかし,そのアプローチは全く違った物です。世界の中心がパリ・ヨーロッパからアメリカへ。アンテイークジュエリーの流れの終焉もやはりこの事と無縁の出来事とは思えません。 アンティークエタラージュでは現代のお洋服でも使えるきちんとした本物のアンティークジュエリーであることにこだわりを持ったセレクションと、可愛らしいモノからミュージアムピースまで、幅広いコレクションがあなたをお待ちしています。 天使のモチーフの数の多さも特徴の一つです。 アンティークジュエリーを愛するみなさまのお越しをお待ちしております。 移転を機に、お客さまがお使いにならなくなったアンティークジュエリーのお預かりも始めました。 まずは「お預かり」のご案内 をご覧ください。 『エタラージュがあなたの街へ』 詳しくはこちらをご覧ください。 『あなたのお店でアンティークジュエリーを扱ってみませんか』 詳しくはこちらをご覧ください。 ウェブサイトトップ:

ロココとファッション

身を装う為にあるジュエリーとファッションは当然、密接な影響があります。 そこでファッションにもふれておこうと思います。 宮廷ファッションが花開くのはロココの頃ですが、ロココファッション自体はパニエ(※1)やトゥルニュール(※2)のように腰から横にスカートを大きくふくらませたスタイルで、ドレススタイル自体に変化はあまりなく、ひだ飾りや様々な宝石、ローブやかぶり物で変化をつけたもので、今日のように定期的にモードが変わるのは19世紀中期頃といえます。 中世よりファッションの中心的役割を果たしてきたフランスですが、14世紀に仕立て屋の同業組合が結成され特権を持ちファッション界を独占していました。 この組合員は男性のみで行われ、彼らが作る堅苦しく変化に乏しい服は当然女性からは不満を持たれモグリの女性裁縫師が現れます。 彼女たちは組合から報復を受けながらも後のルイ14世妃となるマダム・ド・マントノン(※3)ら有力な宮廷婦人の後ろ盾でルイ14世から勅許をうけ、服を作る権利を勝ち取ります。 1675年、こうしてできたのが女性裁縫師組合です。 しかし、この組合も自由に服が作れた訳ではなく、表立っては8歳以下の男の子の服と女性の下着の製作というものでした。 当然、裏では注文を受け作っていたでしょうが、100年後大きく権利を獲得します。 1776年、小間物屋が中心となり婦人服モード商組合が結成され女性も加入が認められます。 女性なら誰でも入れた訳ではないでしょうけどね。 そしてモード商ともいえる婦人服の製作責任の立場を作りだし、それ迄の仕立て屋や裁縫師と連携し、彼らに作らせた服に様々な装飾を施しファッションを作るデレクター的な役割を果たしだします。 装飾だけで巨額な利益を出す専門家が現れ装飾は一層過剰になっていったともいえます。 この組合員は18世紀末にはアクセサリーの製作も初めています。 それ迄の単一の職人仕事には見られなかった何種類もの技法を使ったジュエリーが作られるようになったのです。 又、1770年から1790年にかけて15種類の定期刊行のファッション誌が発刊されます。 中には彩色されたファッション画が描かれ新たなファッション戦略の始まりともいえます。 ロココのファッションが花開くにはこうした背景があったのです。 さて、ロココのジュエリーですが、マリー・アントワネットの肖像画やファッションプレートをご覧になられるとイメージがつかめます。 マリー・アントワネットは別稿で書こうと思っていますがヴェルサイユの頃とトリアノンの頃とで大きくファッションが違います。 まだ、ブローチの時代ではなく、服に直接宝石やパールを縫い付けています。 ピアスやネックレスはありますが、装飾の為のかぶり物が特徴的ですね。 まだ、アフリカのダイヤモンド鉱山もアメリカの金鉱も発見されていないので宝飾品の価値は非常に高いものでした。 特別な階級の人の為にあったものです。 庶民には触るどころか見ることもかなわなかったものです。 ジュエリーが一般的になるにはまだ時間が必要ですが、この時代の大きなキーワードであるエレガンスという感覚は今に近づく程薄くなってゆくように思えます。 あなたもエタラージュでエレガンスはいかがでしょう。 註>

ロココとファッション

身を装う為にあるジュエリーとファッションは当然、密接な影響があります。 そこでファッションにもふれておこうと思います。 宮廷ファッションが花開くのはロココの頃ですが、ロココファッション自体はパニエ(※1)やトゥルニュール(※2)のように腰から横にスカートを大きくふくらませたスタイルで、ドレススタイル自体に変化はあまりなく、ひだ飾りや様々な宝石、ローブやかぶり物で変化をつけたもので、今日のように定期的にモードが変わるのは19世紀中期頃といえます。 中世よりファッションの中心的役割を果たしてきたフランスですが、14世紀に仕立て屋の同業組合が結成され特権を持ちファッション界を独占していました。 この組合員は男性のみで行われ、彼らが作る堅苦しく変化に乏しい服は当然女性からは不満を持たれモグリの女性裁縫師が現れます。 彼女たちは組合から報復を受けながらも後のルイ14世妃となるマダム・ド・マントノン(※3)ら有力な宮廷婦人の後ろ盾でルイ14世から勅許をうけ、服を作る権利を勝ち取ります。 1675年、こうしてできたのが女性裁縫師組合です。 しかし、この組合も自由に服が作れた訳ではなく、表立っては8歳以下の男の子の服と女性の下着の製作というものでした。 当然、裏では注文を受け作っていたでしょうが、100年後大きく権利を獲得します。 1776年、小間物屋が中心となり婦人服モード商組合が結成され女性も加入が認められます。 女性なら誰でも入れた訳ではないでしょうけどね。 そしてモード商ともいえる婦人服の製作責任の立場を作りだし、それ迄の仕立て屋や裁縫師と連携し、彼らに作らせた服に様々な装飾を施しファッションを作るデレクター的な役割を果たしだします。 装飾だけで巨額な利益を出す専門家が現れ装飾は一層過剰になっていったともいえます。 この組合員は18世紀末にはアクセサリーの製作も初めています。 それ迄の単一の職人仕事には見られなかった何種類もの技法を使ったジュエリーが作られるようになったのです。 又、1770年から1790年にかけて15種類の定期刊行のファッション誌が発刊されます。 中には彩色されたファッション画が描かれ新たなファッション戦略の始まりともいえます。 ロココのファッションが花開くにはこうした背景があったのです。 さて、ロココのジュエリーですが、マリー・アントワネットの肖像画やファッションプレートをご覧になられるとイメージがつかめます。 マリー・アントワネットは別稿で書こうと思っていますがヴェルサイユの頃とトリアノンの頃とで大きくファッションが違います。 まだ、ブローチの時代ではなく、服に直接宝石やパールを縫い付けています。 ピアスやネックレスはありますが、装飾の為のかぶり物が特徴的ですね。 まだ、アフリカのダイヤモンド鉱山もアメリカの金鉱も発見されていないので宝飾品の価値は非常に高いものでした。 特別な階級の人の為にあったものです。 庶民には触るどころか見ることもかなわなかったものです。 ジュエリーが一般的になるにはまだ時間が必要ですが、この時代の大きなキーワードであるエレガンスという感覚は今に近づく程薄くなってゆくように思えます。 あなたもエタラージュでエレガンスはいかがでしょう。 註>

アール デコというスタイル

アール・デコというのはスタイルであります。 いつ、誰が始めたというものでなく、19世紀の東洋趣味やアーツ&クラフト,エジプシャン他発掘趣味に端を発したモダンデザインの流れともいえるでしょう。 ですからアール・デコという言葉自体が当初は無く、単にモダンデザインと扱われていました。 1925年、グランパレで行われた『アール・デコ展』を転機としてそれ迄の流行だったアール・ヌーボーは一夜にして色あせてしまいます。 それまでの装飾から解放され、現代のモダンデザインへと連なる機能的で直線美と均一な弧を描く図形的な曲線へ取って代わります。 それは美術工芸にとどまらず、建築から文字のロゴや日用品迄幅広く影響します。 アメリカの乗用車台数は千九百十九年の670万台から1929年の10年間で2310万台へと急増します。 これらの大量生産品にもアール・デコのスタイルは取り入れられます。 又、オリンピックの映画を撮ったレニ・リューヘンシュタールや絵画のタマラ・ド・レンピッカなどの時代を象徴する女性たちの作品や生き方もアール・デコの時代が生んだものであり、彼女たちはアール・デコの女ともいえるでしょう。 それまでいなかった既成の価値観にとらわれず、男と対等に渡り合う、短髪で、時に男装の麗人すらいます。 つまりアール・デコとはただの流行のデザインでなく、人の生き方迄含んだスタイルだったのです。 そんなスタイルは世界に発信され、日本での様々なデザインとともに自立した女性を生んでいきました。 こうして席巻したスタイルでしたが終わりを見ることになります。 それは戦争でした。 世界を席巻したスタイルは世界を襲った戦争にかき消されてしまいます。 戦後もモダンデザインは生み出され、女性の自立の流れも続きました。 しかし、アール・デコというスタイルを持ったものとは違うものです。 アール・デコというスタイルを持った自立した女性と、経済と意識だけ自立した女性には違いがあると思うのです。 そのスタイルを言葉で説明するのは難しいことですが、自分だけのことではなく世界を変えてやろうという気概を感じます。 アール・デコのジュエリーが今のお洋服にはあわせられても、中身の人間を選んでしまうところがあるのはこうしたところにあるように思います。      ☜ご興味ある方はこちらへどうぞ   アンティークエタラージュでは現代のお洋服でも使えるきちんとした本物のアンティークジュエリーであることにこだわりを持ったセレクションと、可愛らしいモノからミュージアムピースまで、幅広いコレクションがあなたをお待ちしています。 天使のモチーフの数の多さも特徴の一つです。 アンティークジュエリーを愛するみなさまのお越しをお待ちしております。 移転を機に、お客さまがお使いにならなくなったアンティークジュエリーのお預かりも始めました。 まずは「お預かり」のご案内 をご覧ください。 『エタラージュがあなたの街へ』...

アール デコというスタイル

アール・デコというのはスタイルであります。 いつ、誰が始めたというものでなく、19世紀の東洋趣味やアーツ&クラフト,エジプシャン他発掘趣味に端を発したモダンデザインの流れともいえるでしょう。 ですからアール・デコという言葉自体が当初は無く、単にモダンデザインと扱われていました。 1925年、グランパレで行われた『アール・デコ展』を転機としてそれ迄の流行だったアール・ヌーボーは一夜にして色あせてしまいます。 それまでの装飾から解放され、現代のモダンデザインへと連なる機能的で直線美と均一な弧を描く図形的な曲線へ取って代わります。 それは美術工芸にとどまらず、建築から文字のロゴや日用品迄幅広く影響します。 アメリカの乗用車台数は千九百十九年の670万台から1929年の10年間で2310万台へと急増します。 これらの大量生産品にもアール・デコのスタイルは取り入れられます。 又、オリンピックの映画を撮ったレニ・リューヘンシュタールや絵画のタマラ・ド・レンピッカなどの時代を象徴する女性たちの作品や生き方もアール・デコの時代が生んだものであり、彼女たちはアール・デコの女ともいえるでしょう。 それまでいなかった既成の価値観にとらわれず、男と対等に渡り合う、短髪で、時に男装の麗人すらいます。 つまりアール・デコとはただの流行のデザインでなく、人の生き方迄含んだスタイルだったのです。 そんなスタイルは世界に発信され、日本での様々なデザインとともに自立した女性を生んでいきました。 こうして席巻したスタイルでしたが終わりを見ることになります。 それは戦争でした。 世界を席巻したスタイルは世界を襲った戦争にかき消されてしまいます。 戦後もモダンデザインは生み出され、女性の自立の流れも続きました。 しかし、アール・デコというスタイルを持ったものとは違うものです。 アール・デコというスタイルを持った自立した女性と、経済と意識だけ自立した女性には違いがあると思うのです。 そのスタイルを言葉で説明するのは難しいことですが、自分だけのことではなく世界を変えてやろうという気概を感じます。 アール・デコのジュエリーが今のお洋服にはあわせられても、中身の人間を選んでしまうところがあるのはこうしたところにあるように思います。      ☜ご興味ある方はこちらへどうぞ   アンティークエタラージュでは現代のお洋服でも使えるきちんとした本物のアンティークジュエリーであることにこだわりを持ったセレクションと、可愛らしいモノからミュージアムピースまで、幅広いコレクションがあなたをお待ちしています。 天使のモチーフの数の多さも特徴の一つです。 アンティークジュエリーを愛するみなさまのお越しをお待ちしております。 移転を機に、お客さまがお使いにならなくなったアンティークジュエリーのお預かりも始めました。 まずは「お預かり」のご案内 をご覧ください。 『エタラージュがあなたの街へ』...

『朦朧体(もうろうたい)』というスタイル

20世紀のヨーロッパの絵画流行の中で日本でいうところの朦朧体と命名されたようなスタイルがあったかどうかは判りませんが、近いものとしてモネ、スーラ、シャバンヌ達が代表的なのでしょうね。 ちょうど同じ頃音楽の世界でドビッシーが朦朧体というあまり肯定的でない呼ばれかたをされていました。 ドビッシーは音楽における象徴派というか、大変な文学青年で文学と音楽の融合を目指していました。 当時の最も衒学的で難解な、詩人マラルメの有名な集まり「木曜会」の常連で、1986年に書かれた詩『牧神」にインスパイアされて1894年に作曲されたのが『牧神の午後のための序曲』です。 マラルメ自身はドビュッシーのこの作品には否定的だったようですけどね。 そしてパリ、シャトレ座で1913年デイアギエフ、バレーリユス公演の第3回目において伝説的なバレーダンサー、ニジンスキーの振り付け主演で初演されました。 デイアギレフはニジンスキーが去った後もその時どきの愛人、マシーン、リファールなどを連れて美術館回りをしたそうですが、この時も始めて振り付けをするニジンスキーと一緒にイタリアの沢山の美術館巡りをして、ギリシャの赤絵式、黒絵式と呼ばれる壷に描かれた絵画から影響を受けて牧神と女性達の動きを作り出したそうです。 ニジンスキーの振りつけた作品は彼の悲劇的な生涯、精神障害の為にきわめて少ないのですが、当時天才的な振付家といわれたフォーキンの沢山の作品のうち、現在上演されるものが『バラの精」「ペトルーシュカ」「瀕死の白鳥』の3作品だけだと考えますと、その短い期間に作られた4作品のうち『牧神』『春の祭典』『遊戯」の3作品が「いまだに100年前の作品と思えない現代性を保つているというには本当に驚きです。 『8年ほど前、ロンドンのコベントガーデンのオペラハウスのデイアギレフプロで珍しく「遊戯」を観る機会がありました。 3人の男性同士の愛の関係性を,2人の女性と1人の男性に置き換えてありますが、ニジンスキーの手記のなかでは自分とデイアギレフとニジンスキーの最初の愛人の貴族との3角関係をバレー化したとの記述があります。 軽いタッチのバレーで、アールデコ期のテニスウェア姿男女3人がみえないボールを打ちあったり、あまりバレーらしい華やかな振り付けもされていないのですが、透明感の漂う繊細で不思議な魅力のあるこのバレーが100年近く前に作られたとは到底思えない現代人の複雑な関係性を表現していて、フォーサイスの「インザミドル」の世界を100年前に先取りしているように思えました。 最近二十歳頃に読んだ「ニジンスキーの手記』の完全版が出版されたと知って読んでみたのですが、かなり精神障害の徴候が進んで来ているようにみえるところを差しひいて読んでも,その語彙の10歳児のようなたどたどしさには驚かされました。 しかし知性といわれているものとは一体なんなのでしょうか。 偉大なダンサーにして!00年後に古びない作品を残せたのはまぎれもない天の与えた才能です。 ニューヨークシテイバレーのジョージ、バランチンもシュツッツガルトバレーのクランコも、ベジャールもダンサーとしてニジンスキーに比べられる存在のはずはありません。 ところでこの珍しいリモージュエナメルのブローチは,19世紀後期のはっきりとしたタッチから,絵画の影響を受けてわざと流れる様なまさしく朦朧体の影響を受けたリモージュエナメルの歴史の中でもきわめて特異な作風の作品です。 そしてモチーフがまたそのものズバリの牧神とミューズです。 ひょっとしてニジンスキー贔屓の貴婦人がオーダーで作らせたのかもと妄想が膨らみます。 アンティークエタラージュでは現代のお洋服でも使えるきちんとした本物のアンティークジュエリーであることにこだわりを持ったセレクションと、可愛らしいモノからミュージアムピースまで、幅広いコレクションがあなたをお待ちしています。 天使のモチーフの数の多さも特徴の一つです。 アンティークジュエリーを愛するみなさまのお越しをお待ちしております。 移転を機に、お客さまがお使いにならなくなったアンティークジュエリーのお預かりも始めました。 まずは「お預かり」のご案内 をご覧ください。 『エタラージュがあなたの街へ』 詳しくはこちらをご覧ください。 『あなたのお店でアンティークジュエリーを扱ってみませんか』 詳しくはこちらをご覧ください。 ウェブサイトトップ:

『朦朧体(もうろうたい)』というスタイル

20世紀のヨーロッパの絵画流行の中で日本でいうところの朦朧体と命名されたようなスタイルがあったかどうかは判りませんが、近いものとしてモネ、スーラ、シャバンヌ達が代表的なのでしょうね。 ちょうど同じ頃音楽の世界でドビッシーが朦朧体というあまり肯定的でない呼ばれかたをされていました。 ドビッシーは音楽における象徴派というか、大変な文学青年で文学と音楽の融合を目指していました。 当時の最も衒学的で難解な、詩人マラルメの有名な集まり「木曜会」の常連で、1986年に書かれた詩『牧神」にインスパイアされて1894年に作曲されたのが『牧神の午後のための序曲』です。 マラルメ自身はドビュッシーのこの作品には否定的だったようですけどね。 そしてパリ、シャトレ座で1913年デイアギエフ、バレーリユス公演の第3回目において伝説的なバレーダンサー、ニジンスキーの振り付け主演で初演されました。 デイアギレフはニジンスキーが去った後もその時どきの愛人、マシーン、リファールなどを連れて美術館回りをしたそうですが、この時も始めて振り付けをするニジンスキーと一緒にイタリアの沢山の美術館巡りをして、ギリシャの赤絵式、黒絵式と呼ばれる壷に描かれた絵画から影響を受けて牧神と女性達の動きを作り出したそうです。 ニジンスキーの振りつけた作品は彼の悲劇的な生涯、精神障害の為にきわめて少ないのですが、当時天才的な振付家といわれたフォーキンの沢山の作品のうち、現在上演されるものが『バラの精」「ペトルーシュカ」「瀕死の白鳥』の3作品だけだと考えますと、その短い期間に作られた4作品のうち『牧神』『春の祭典』『遊戯」の3作品が「いまだに100年前の作品と思えない現代性を保つているというには本当に驚きです。 『8年ほど前、ロンドンのコベントガーデンのオペラハウスのデイアギレフプロで珍しく「遊戯」を観る機会がありました。 3人の男性同士の愛の関係性を,2人の女性と1人の男性に置き換えてありますが、ニジンスキーの手記のなかでは自分とデイアギレフとニジンスキーの最初の愛人の貴族との3角関係をバレー化したとの記述があります。 軽いタッチのバレーで、アールデコ期のテニスウェア姿男女3人がみえないボールを打ちあったり、あまりバレーらしい華やかな振り付けもされていないのですが、透明感の漂う繊細で不思議な魅力のあるこのバレーが100年近く前に作られたとは到底思えない現代人の複雑な関係性を表現していて、フォーサイスの「インザミドル」の世界を100年前に先取りしているように思えました。 最近二十歳頃に読んだ「ニジンスキーの手記』の完全版が出版されたと知って読んでみたのですが、かなり精神障害の徴候が進んで来ているようにみえるところを差しひいて読んでも,その語彙の10歳児のようなたどたどしさには驚かされました。 しかし知性といわれているものとは一体なんなのでしょうか。 偉大なダンサーにして!00年後に古びない作品を残せたのはまぎれもない天の与えた才能です。 ニューヨークシテイバレーのジョージ、バランチンもシュツッツガルトバレーのクランコも、ベジャールもダンサーとしてニジンスキーに比べられる存在のはずはありません。 ところでこの珍しいリモージュエナメルのブローチは,19世紀後期のはっきりとしたタッチから,絵画の影響を受けてわざと流れる様なまさしく朦朧体の影響を受けたリモージュエナメルの歴史の中でもきわめて特異な作風の作品です。 そしてモチーフがまたそのものズバリの牧神とミューズです。 ひょっとしてニジンスキー贔屓の貴婦人がオーダーで作らせたのかもと妄想が膨らみます。 アンティークエタラージュでは現代のお洋服でも使えるきちんとした本物のアンティークジュエリーであることにこだわりを持ったセレクションと、可愛らしいモノからミュージアムピースまで、幅広いコレクションがあなたをお待ちしています。 天使のモチーフの数の多さも特徴の一つです。 アンティークジュエリーを愛するみなさまのお越しをお待ちしております。 移転を機に、お客さまがお使いにならなくなったアンティークジュエリーのお預かりも始めました。 まずは「お預かり」のご案内 をご覧ください。 『エタラージュがあなたの街へ』 詳しくはこちらをご覧ください。 『あなたのお店でアンティークジュエリーを扱ってみませんか』 詳しくはこちらをご覧ください。 ウェブサイトトップ: