
左奥のライラックを髪に飾り白いクリノリンドレス姿がウージェニーです。
この1855年にフランツ・クサーヴァー・ヴィンター・ハルターが描いた絵の中のドレスは全てウォルトの作品といわれています。
19世紀最大のファッションクリエーターはウォルトに違いありません。

若い頃のウォルト

CHARLES FREDERICK WORTH (1826-1895)
1826年、イギリス・リンカシャーのバーン生まれ。
英語読みでは、チャールズ・フレデリック・ワース、フランス名はシャルル・フレデリック・ウォルト。
12歳の頃からロンドンの生地店で働き1845年20歳のときに渡仏、リシュリュー通りの有名な衣料雑貨店「ガシュラン」に就職します。
ここで10数年働き、クチュリエとしての第一歩を踏み出します。
その間自分が筆頭となり婦人服仕立部門をつくりクチュリエとしての修行を積み、1858年に独立してスウェーデン人投資家ボベルグの資金援助によってパリのリュ・ド・ラ・ペ通りに自身のメゾンを開きました。
時代のファッションアイコンに使われたことでクリノリンはヨーロッパの宮廷ファッションに大流行を巻き起こしました。
1860年代に入るとhttp://etalage.seesaa.net/article/389536349.htmlはさまざまなバリエーションがつくられるようになります。
やがてルイ16世の王妃マリー・アントワネットのマルシャンド・ド・モード(王室モード担当)だったローズ・ベルタンのようにファッション界でサクセスを極めます。
ウォルトの作品は、刺繍とレースをふんだんに使った高級服が基本で、ジェット、コード刺繍、マクラメ、フリンジ等やや重たげな世紀末の衣装を象徴したものが多く、彼はエレガントで華麗なクリノリン・スタイルを広め1866年にはプリンセス・カットのドレス、これは今でもウエディングドレスに形を残しています。

次いで下からペチコートをのぞかせるチュニック・モードを考案します。
チュニックというと現代日本ではカジュアルなワンピースのように使われていますが、本来上着のことでスカート・パンツ・レギンスなどボトムスと共に着るもののことです。
1868年にローザ・ベルダンが理事を務めていたモード商人組合の略称「サンディック」を発展させた「ラ・シャンブル・サンディカル・ド・ラ・クチュール・パリジェンヌ(フランス・クチュール組合)」略称「サンディカ」を創設します。
これが現在にまで残る、「パリ・クチュール組合」の前身です。
つまりオートクチュールの創世です。
1870年の帝政崩壊後、これまでの皇室中心のファッションスタイルは崩れました。
ウォルトは帝政の崩壊によって一度はファッション界を退いたものの、それまでの王族や貴族を中心としたものから新興のブルジョワジー(裕福層)、アメリカの富豪などを中心としたあらたな裕福層を顧客につけ、あらたなファッションスタイルへ変化し再度栄華を極めます。
この帝政の崩壊が結果的に新しいファッションを切り開くことになりました。
それはこれまでファッション業界である種のトレンドをつくってきた皇室(王室)がなくなったことで絶対的なスタイルがなくなり、ファッションデザイナーは「トレンドを作る人(皇室・王室)の服を作っている人」から「トレンドそのものを作る人」に変化しました。
こうしてウォルトなど優れたクチュリエの服を着ることがステータスとなり、トレンドとなり、ファッションデザイナーという新しい職業が生まれ、着る側が作っていたファッションが製作する側がファッションを提供するようになったのです。
オートクチュール以前のファッション業界の仕組みはカスタマーギルド制が背景としてあり、工程ごとに職業が独立していました。
注文者自身が生地を買い、装飾品を集め、そのパーツを仕立屋に持っていき、仕立屋が注文者の体に合わせてデザインし、最後の縫製は仕立屋とは別に存在する針子が請け負うシステムだったのです。
優秀な技術者を抱えクオリティーの高い衣装を提供していますが、ほんのいくつかのスタイルに併せて使われた
違った布、違った装飾を施す変わりばえしないもので、新しいモードを創造するという概念自体を持ちませんでした。
ファッションの最大のステータスはテキスタイル(生地)であり、デザイン面に関してはそれほど重要視されていなかったと言えます。
ウォルトのやり方は複数の服のサンプルを用意しモデルに着せて顧客に見せ、それを顧客が選択し、顧客の体のサイズに合わせて作るというものです。
これにより顧客に服が届くまでの時間が短縮され、生産システムが効率的になり、より多くの顧客のもとに製品を届けることができるようになりました。
これを発展させたものが既製服であり1870年頃からアイテムに限りはありますがサイズ別の既製服が登場します。
モデルやマヌカンという職業もウォルトの店で生みだされました。
なお、ウォルトは同店のマヌカンだったフランス人マリ・ヴェルネと結婚しています。
ちなみにウォルトは顧客同士が同じ服をバッテングしないように顧客の住む場所、服を着ていく場所など、すべて顧客の情報を管理し服を供給していたと言われています。
注文服ならでわの顧客管理ですね。
ウォルトのデザイナーとしての仕事はテキスタイルの選定、デザイン、仕上がりの見直しまで一貫して管理する立場となりました。
そのうえアトリエの管理、専属マヌカンの登用、年4回の創作衣装の発表会(コレクション)など、経営と創作を統合する一貫した運営法を組織化し今日のモード界の基礎を築いたのでした。
オートクチュールという言葉にはさまざまな定義がなされていますが、ウォルトが最初のオートクチュールデザイナーともいえます。

1875年、ウォルトはクリノリンが柔らかい素材にかわることをルイ・ヴィトンに話します。
ヴィトンはデザインする鞄に引き出し部分を加えてクリノリンなどの衣装を持ち運ぶための旅行用のトランク家具に発展させます。
こうしてヴィトンの発展の足がかりができました。

フランツ・クサーヴァー・ヴィンターハルターが1865年に描いたエリザベート皇后はウォルト デザインのシルクのチュールに金の刺繍のクリノリンドレス・スタイルです。
有名な星形のジュエリーをつけていますね。
イギリスの産業革命におくれてこの頃からフランスにもミシンが登場しています。
ウォルトはリヨンのシルクでドレスをつくり、衰退していたリヨンの絹織を復興させました。
当時のイギリスで「お金持ち」といわれた年収額の目安は5000ポンド程ですが、ウォルトの顧客の年間支払額が400~4000ポンドといわれます。
ウォルトのメゾンがどれほど高価な商品を販売していたかがうかがえます。
1895年にウォルトがなくなると長男ジャン・フィリップ・ウォルトは創作担当、次男ガストン・ウォルトは経営担当と役割分担してメゾンが引き継がれました。
この息子2人がフランス国籍を取得した後に正式にイギリス名「ワース」は「ウォルト」という読みでよばれるようになりました。
そしてそのメゾンにはあのポール・ポワレ(1879-1944)が働いていたのです。
マドレーヌ・ヴィオネ 、ココ・シャネル、そしてポール・ポワレによって20世紀のファッションの扉が開かれましたが、こんなところにその萌芽が芽吹いていたのです。
1900年には、ウォルトの香水(Parfums Worth)を発表。
現在同族の経営は香水部門のみで、パリ・サントル通りにその店があり、曾孫ロジェ・ウォルト(Roger W.)が経営しています。



バッスル・スタイルなども含め、まさに宮廷モードから現代モードへの転換期に活躍した人物といえるでしょう。
複製のドレスはイギリスやアメリカの既製服企業のバイヤーにも販売されたそうで、そういう販売形態を行なった最初の人でもあります。