ロココのファッションリーダーの一人、ルイ16世妃マリー・アントワネットは国家を傾かせる程の散在をした悪女として市民に処刑されてしまいましたが、果たしてどんな女性だったのでしょう。
マリー・アントワネットは女帝マリア・テレジア(※1)と神聖ローマ皇帝フランツ1世の皇女で、マリア・アントニアという名前でした。
マリア・テレジアは女帝と呼ばれた女性でしたが、私生活では良き妻であり、良き母親でした。
他の王室と違いとても家庭的な環境ですくすくと育ち、4歳で社交界デビューしています。
10歳のとき父である神聖ローマ帝国皇帝フランツ1世が亡くなり大きく運命が動き始めます。
当時プロイセンのフリードリヒ2世(※2)に国土を脅かされていたマリア・テレジアは、ロシアの女帝エリザヴェータとルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人の協力を得てプロイセンに対抗する勢力を作り上げました。
そうしてオーストリア・ハプスブルク家とフランス・ブルボン家とは長年ヨーロッパの覇権を巡って激しい対立をしてきましたが、1756年にフランス王ルイ15世と同盟を結ぶことに成功します。
俗に “ 3枚のペチコート作戦 ” ※3といわれるものです。
長年の宿敵フランスとより強い結びつきを確保するために王太子ルイとマリア・テレジアの末娘マリー・アントワネットの縁談がとりまとめられました。
ルイ(後の16世)はルイ15世の孫にあたりますが、父のルイが早世したため王太子になりました。
そして1770年、14歳になったマリー・アントワネットと16歳のルイは国民の祝福を受けながら華々しく結婚しました。
1774年5月10日、フランス王ルイ15世がこの世を去り、ルイ・オーギュストがフランス王ルイ16世となり、マリー・アントワネットも18歳で王妃となります。
当初マリー・アントワネットは宮廷の娯楽に関する一切を任されたために毎週3回の芝居、2回の舞踏会を催していました。
パリの街がお気に入りで、お忍びで仮面舞踏会に出かけては素性を隠して誰彼かまわずお喋りしたり踊ったりしていました。
これらの軽率な行動を母マリア・テレジアにも手紙でたしなめられましたが、アントワネットの行動にストップはかかりませんでした。
オーストリアの自由で家庭的な宮廷で育ったアントワネットにとって、堅苦しいヴェルサイユ宮殿での暮らしが退屈で息が詰まりそうで、その反動だったかもしれませんね。
朝の接見を簡素化させたり、全王族の食事風景を公開することや(王と王妃の夜伽の公開まであったとか)、王妃に直接物を渡してはならないなどのベルサイユの習慣や儀式を自分の意に添わない人物は宮廷から追い出してしまうなどのやりかたで廃止・緩和させました。
しかし、誰が王妃に下着を渡すかでもめたり、地位によって便器の形が違ったりすることが一種のステイタスを奪われた宮廷内の人々にとっては、アントワネットが彼らの特権を奪う形になってしまい、彼ら自身も無駄とは思っていたでしょうが逆に反感を買ってしまうこととなります。
ヴェルサイユ宮殿から1キロほど離れたところにアントワネットが作らせた離宮プチ・トリアノンは、唯一のんびり過ごすことができた場所でした。
ここでの権限はマリー・アントワネットにあり、ルイ16世ですら客人として扱われる場所だったのです。
プチ・トリアノンの工事が行われているときアントワネットはたびたび総務監督と揉め事を起こしています。 人々は王妃の莫大な出費に対して不満を口にするようになってゆきました。
ヴェルサイユ宮殿とその庭園は全て民衆に解放されている場所でしたが、プチ・トリアノンはマリー・アントワネットの特別な許可がなければ足を踏み入れることのできない、それゆえ人々の好奇心を大きくし悪い噂を生む場所ともなっていきます。
この離宮に招かれた者は誰もが気ままに過ごし、アントワネットが居間に入ってきても誰も会話を止めず、刺繍の手も休めず、楽器の演奏を止めることもなく、アントワネットも皆の中に加わって会話に花を咲かせるような内輪のきさくな空間だったのですが、公開されたヴェルサイユ宮殿と違ったプチ・トリアノンで何が行われているのか、庶民の妄想をかき立てる材料となったのです。
ところがアントワネットは自由気ままに過ごせるプチ・トリアノンでも物足りないものを感じるようになっていきました。
そこで離宮の庭園に大きな池を掘り、池のほとりには塔や納屋、はと小屋やニワトリ小屋、風車小屋などを作り、更には番人小屋や小さなわらぶき屋根の家まで建て、住み込みで働く農夫婦、庭師、牛飼いなどもいる人工的な田舎、アモーが作られました。
この作られた田舎をのんびり散歩するのがアントワネットは好きでした。
ここでのアントワネットは田舎娘の格好をするのを好み、アントワネットのクチュリエ、ローザ・ベルタンは王妃の為に袖や長い裳裾を取り払ったスリップドレスをデザインしてます。
高級コスプレですね。
ロココファッション全盛の中、宮廷では下着姿のような奇抜な格好といわれたそうです。
田舎風ドレス ルイ15世の愛妾デュ・バリー夫人との不毛な争い。
連日連夜の仮面舞踏会、奇妙奇天烈なヘアスタイルと一度しか着ないドレス。
市民が食うや食わずだというのに音楽だ、芸術だ、バレエだと娯楽にうつつをぬかし、スウェーデン貴族フェルセンとの恋、貧しい人の怒りをかったというプチ・トリアノン。
しかし、これらの行動には理由があります。
アントワネットは結婚式の間中、晴れやかな表情をし、床入りの儀式のときにも微笑みを浮かべていたといいます。
しかし、王太子はアントワネットの手すら握らなかったのでした。
兵隊遊びに夢中でアントワネットを顧みない夫。
子供を産む可能性すらないということは、王室で育ち、継承者を作るという目的を持って嫁いできた彼女にかなりの屈辱を与えたのでしょう。
子供のできないアントワネットの身を案じ、母マリア・テレジアは息子である神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ2世をフランスに送ります。
子供のできない理由をルイ16世から聞いたヨーゼフ2世はルイ16世を励まし、遂には手術を受けることを承諾させます。
結婚から7年、ようやく2人は本当の夫婦となることができ、翌年には始めての子供を産み、幼くして2人がこの世を去りますが4人の子供を産むことができました。
子供を産んでからのアントワネットは夜遊びもしなくなり、大変な子煩悩でした。
子供に玩具を我慢させたり、きちんと教育していたようです。
しかしその反面、母マリア・テレジアと兄、神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ2世の支持を公然としており、母と兄の要望をルイ16世が飲まないことで大臣に直談判したり、オーストリア大使と密談するなどし、こうした行動がフランス王妃としての信用を失墜させていきました。
その2へ続く 註 ※1 マリア・テレジア
マリア・テレジアは一般的に「女帝」と呼ばれ、実態も女帝そのものですが、実際には帝位は夫のものでした。
夫である皇帝がフランス国境沿いの小国ロレーヌ公国出身の養子的存在であり、ハプスブルク家領国内において実際の政治的権力をほとんど持たなかったことと、ハプスブルク家当主が継承してきたオーストリア大公の位にはマリア・テレジアが就きハプスブルク家の領国と家督を相続したため、彼女の肖像画には神聖ローマ皇帝の帝冠が添えられている場合が多く、実質的に国家の実態を失っていた神聖ローマ帝国よりも、その盟主であるオーストリアおよびハプスブルク家支配地域のほうが事実上の君主国と見なされていたからです。
若い頃は輝くばかりの美貌で後の宿敵プロイセン国王フリードリヒとの縁談もあったそうが、これが決まっていたら歴史は大きく変わっていたでしょうね。
ウィーンへ留学に来ていた又従兄のロレーヌ公子フランツに恋をし、父カール6世もフランツのことを大変気に入って当時の王族としては奇蹟にも近い恋愛結婚をあげました。
父カール6世は国事勅書を出して国内および各国に、彼女のオーストリア・ボヘミア(ベーメン)・モラヴィア(メーレン)・ハンガリーなど、ハプスブルク家世襲領の相続を認めさせました。
その後オーストリア継承戦争・七年戦争を持ち前の聡明さで切り抜けます。
プロイセン対策の一環として号令をドイツ語で統一し、有能な人材を登用し、一般徴兵制が採用し貴族と平民の差別がない兵学校を創設して、農民出身であっても給料を得られるようになったことで、兵士達が安定した生活を保証されるようになり軍事力の向上をはかる一方で軍事機構の一元化をはかり軍隊を立て直します。
また、自国内で2番目の多数派を占めるハンガリー人の心をつかむため乗馬の腕(ハンガリー人は元騎馬民族)を磨く一方で、巧みな泣き落としまで使いました。
また、全土に均一の小学校を新設し、全国で同内容の教科書が配布し義務教育の普及を図り、国民の知的水準が大きく上げ中長期的な国の発展の基礎作りをしました。
用意周到さも発揮します。
父王からは跡を継ぐのは男と思われ、政治について全く教わることはなかったそうですから実に聡明な方といえます。
夫が無くなり自分が死ぬまでの15年間を喪服で過ごしたそうです。
※2 フリードリッヒ2世
プロイセン国王フリードリヒ2世といえば、啓蒙専制君主の模範ともいわれる王ですが、オーストリアにとっては不倶戴天の敵みたいな存在でしかありません。
若いときは芸術を愛するデリケートな皇太子と見られていたのですが、父王の後を継ぐや好戦的な国王に豹変します。
女性蔑視はかなりのものだったといわれていてハプスブルク家前帝のカール6世が亡くなってマリア=テレジアが帝位を継承するや女の帝位など認めないとして1740年12月16日にボヘミアの北東にある肥沃なシュレジエン地方を占領してしまいました。
これを発端にプロシアとオーストリアの緊張が始まります。
後に聡明なマリア・テレジアに苦境にたたされ迷言をはきます。
「オーストリアにはすごい男がいる。しかも、その男は女だ!」 筋金入りの女性蔑視です。
※3 3枚のペチコート作戦 マリア=テレジアはフリードリヒ2世の女性蔑視をにがにがしく思っていたルイ15世の愛妾で才媛のポンパドール夫人とロシアのエリザベート女帝を通してこれまで仲の悪かったフランスとロシアを自国の味方につけることにも成功します。
(プロイセンとイギリスが同盟を結び、フランスとイギリスの関係が悪かったこともあります。)
3国によるプロイセン包囲網が完成しいかに強力な軍国プロイセンといえども兵力を分散せざるえなくなった訳です。
この作戦はフリードリヒの女嫌いを皮肉ってか、「3枚のペチコート作戦」などと呼ばれ外交革命といわれました。
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