ルイ16世妃 マリー・アントワネット その4

その3より 民衆の怒りは貴族に向けられ、外国勢力と裏で結託していると思うようになります。

王党派とみられる貴族や新憲法に宣誓をしなかった司祭らに怒りの矛先が向けられ、彼らが幽閉されていた監獄が襲われマリー・アントワネットのよき理解者であったランバル公爵夫人もこのときに犠牲になっています。

公爵夫人の首は、槍の先に刺されてマリー・アントワネットの幽閉されたタンプル塔の窓に掲げられたなんてお話もあります。

裁判のための調査委員会により、テュイルリー宮殿のルイ16世の住居の別名『鉄の戸棚』からメモ魔だったルイ16世の様々な書類が発見され亡命者と連絡を取っていたこと、外国と交渉していたことなどがあきらかにされます。

12月11日、死刑に賛成が387票、反対が334票でしたが、賛成のうち執行猶予を望む票が26票あり、この表を反対票に加えると361対360となり、わずか1票の差で死刑が確定されたともいえます。 マリー・アントワネットは連打される太鼓と大砲の音で、夫の刑が執行されたことを知ります。

その絶望のなかで息子ルイ・シャルルの前に膝まづき、ルイ17世としての即位を讃えます。

窮地に立たされてはじめて自分がどういう立場の人間だったのかを自覚し、それにふさわしい態度で臨んだのでしょうね。

当時のフランスでは守衛にお金を払うと誰でもアントワネットと面会ができたそうで、いろんな面会人がやってきました。

ある日監視責任者のミショニが連れてきた面会人にアントワネットは見覚えがありました。

聖ルイ騎士団のルージュヴィルという人物で、民衆がテュイルリー宮殿に乱入したところを助けてくれた人でした。

彼はアントワネット救出の計画がありミショニもその1人であることなどを伝えます。

4日後の決行の夜、ミショニとルージュヴィルが独房に来てマリー・アントワネットをタンプル塔に移すことになったと牢番や監視兵に告げ、監視兵に付き添われ最後の扉を潜り抜け、まさに逃走用の馬車乗り込もうとしているそのときに監視兵がアントワネットを外に出すことに強く反対し、騒ぎとなり計画が失敗に終わりました。

この事件をきかっけに、それまでマリー・アントワネットに対する裁判に積極的ではなかった世間も一変して裁判への動きが強くなってしまいました。

革命政府の中にも外国との交渉の道具にマリー・アントワネットを使うという意見もあったのですが、肝心のオーストリアが交渉に乗ってくる気配がなく、仮に逃亡されたら反革命派の勢いがついて自分らの身が危ないと考えました。

マリー・アントワネットを裁判にかけることを強く望んだのがパリ市の幹部エベールと、革命裁判所検事総長のフーキエ・タンヴィルで、民衆もアントワネットの裁判を強く望んだために国民公会は裁判にかけることを決めました。

フーキエ・タンヴィルは革命裁判所の組織強化という名目で判事と陪審員を筋金入りの革命派で固めるました。

8歳の子供が証言するには詳細すぎて信憑性に欠けていますが、息子ルイ・シャルルは尋問の中で、マリー・アントワネットが何かしらの方法を使い外部の協力者と情報を交換していたこと、塔に派遣されたパリ市の役員に共犯者がいるのではないかという嫌疑を全部認めたとされています。

しかし、エリザベートとテレーズの証言の一問一答が記録されているにもかかわらず、シャルルの証言は、あとからまとめて書かれたものでした。

どんな手を使ってでもマリー・アントワネットを有罪にしたかったのです。
フランス革命の背景となったものにルイ14世の晩年頃から既に陰りを見せていた国家財政が、ルイ15世時代のポーランド継承戦争・オーストリア継承戦争・七年戦争などで更に逼迫していました。

ルイ16世はこれをなんと建て直すべく、はじめテュルゴー(A.R.Jacque Turgot)を財務総監にして国政改革に力を入れ、それが貴族・ 僧侶の抵抗で1776年辞任に追い込まれると、今度はネッケル(Jacque Necker)を財務長官にして、改革路線を更に推進します。

しかし彼に対しても貴族・僧侶の抵抗は強く1781年、彼も辞任に追い込まれてルイ16世は苦境に立たされます。

民衆側はなかなか進まない改革に不満が蓄積していて、このネッケル解任は王制への不信と制御の効かない怒りへと押し進めていきました。

また、ルイ15世の時代には気候もよく、農作物が豊富に獲れて人々は比較的豊かな生活をおくっていました。

ルイ16世の時代になると天候は悪く、農作物も不作で、唯一豊作だったブドウのお陰でワインの価格は逆に値崩れを起こし、人々の暮らしはとても苦しいものになっていました。

フランス革命の背景に国家経済の困窮と追いつめられた庶民生活というものがあったわけです。

この困窮の一番の原因はマリー・アントワネットの散財ではなく、戦争による桁違いの戦費では無かったでしょうか。

他の国家の変節にも当てはまることでもあります。

アントワネットがここまで恨まれた一つにルイ16世に愛妾がいなかったことがあります。

当時、普通国王には公認の愛妾がいるものでした。

宮廷で王妃と同じように振舞うことができ、強い権力も持っていました。

そして愛妾は身持ちが悪く、国のお金を浪費し、国王に対してもよくない助言をする者として、人々の憎しみを集める役割も担っていました。

愛妾がいることで人々の目線は王妃から離れ、中傷は愛妾に集まるのが普通でしたがルイ16世の場合、愛妾がいなかったので人々の中傷は、マリー・アントワネット1人に集中することとなります。

原因はいろいろあり、決して悪意のある人間ではなかったのですが、節目節目の判断をことごとく誤り、何度も助かるチャンスがありながら断頭台までの道筋を辿ってしまったアントワネット。

民衆に祝福されてフランスに嫁いできた王妃マリー・アントワネットは1789年、断頭台で38歳の命を閉じました。

民衆に直接裁かれた数少ない悲劇の王妃です。

さて、ここにありますのは悲劇のルイ16世ファミリーの横顔が並んだエナメルのジュエリーです。

透かし入り画像の見本.jpg

大変出来の良いモノです。(コピー防止のマークがうるさくて申し訳ございません) 家族の肖像というところが意味深いですね。

こういったものは下腸品が多いのですが,下腸品ではないようにも思えます。

背景が真っ白というところも特徴的です。

今年の春、東京駅そばの三菱一号館美術館で(※1)展(2011年3月1日火〜5月8日)という展示が催され行ってきましたが、 ミニアチュールが申し訳程度に置いてありました。

出来の良いモノが何枚か並びますとメリハリもついて面白いのに残念です。

もっとも出来の良いこうしたものはなかなかありませんので難しいのでしょうね。

※1 vijye.jpg

ヴィジェ・ルブラン 1755年パリの画家の娘として生まれ10代の頃より肖像画家として腕を発揮しています。

1776年王室建造物局に採用されアントワネットの目に留まります。

他の肖像画家の絵に不満だったアントワネットですが、ヴィジェ・ルブランの描く絵は気に入って絵を注文します。

数年館で4?5パターンの大型の肖像画を描き、そのレプリカを十数点描いています。

この間画家とパトロンである王妃という関係を超えた友人関係があったと言われています。

夫が画商であったことで反対されていた王立絵画彫刻家アカデミーにもアントワネットが夫に手を回し、1783年会員に迎えられました。

フランス革命で逃亡し、イタリアに4年・オーストリアに2年・ロシアに6年すごします。

アントワネットの肖像画家として各地に名声を博していましたのでいく先々の貴婦人を描いて生活していました。

ローマでは作品が大絶賛され、ローマの聖ルカ・アカデミーの会員に選ばれ、ロシアでは女帝エカチェリーナ2世の皇族を多数描きサンクトペテルブルク美術アカデミーの会員になりました。

イギリスにおもむいてバイロン他の肖像も描いています。

1802年に帰国するとナポレオンの妹のカロリーヌの肖像画も描いていますが、ナポレオンとの折り合いが悪く1807年にスイスに出国、ジュネーヴ芸術促進協会の名誉会員となります。

フランスが王政復古するとルイ18世に手厚く迎えらました。

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